詩とフィクション 詩と向き合う
葉leaf

 詩は本当のことを語っているのでしょうか。つまり、詩はノンフィクションなのでしょうか。それとも、詩は嘘のことを語っているのでしょうか。つまり、詩はフィクションなのでしょうか。

岩が   吉野弘

岩が しぶきをあげ
流れに逆らっていた。
岩の横を 川上へ
強靭な尾を持った魚が 力強く
ひっそりと 泳いですぎた
逆らうにしても
それぞれに特有な
そして精いっぱいな
仕方があるもの。
魚が岩を憐れんだり
岩が魚を卑しめたりしないのが
いかにも爽やかだ。
流れは豊かに
むしろ 卑屈なものたちを
押し流していた。

 ある文章がフィクションであるか、ノンフィクションであるかについては、(1)その文章が実際に現実と対応しているか、(2)語り手がその文章を本当のものとして語っているか、(3)受け手がそれを本当のものとして受け取っているか、その三つの要素を考慮しなければなりません。
 この「岩が」という詩は、まず、現実の川の流れとそこにある岩とそこを泳いでいる魚についてありのままを語っています。この意味でノンフィクションです。次に、吉野自身、自分の経験、自分の実感を、本当のものとして語っています。その意味でもノンフィクションです。そして、読み手も、この詩を吉野が真実を語ったものとして受け止めるでしょう。その意味でもノンフィクションです。
 つまり、この詩はノンフィクションである詩の典型例と言えます。ノンフィクションである詩に向き合ったとき、私たちは、詩人のありのままの声に耳を傾け、それをありのままに受け止めて、その思想なり経験なりを共有するのが望ましいと言えます。
 では次の詩はどうでしょうか。

 よく判断できなかったが、彼女らは、何かかすかな歓喜に酔っているらしい。かわるがわる、交替しては、殺し合っているのだ。
 ひとりが痙攣しながら死ぬと、次は、生き残った娘が、死んだ娘に、胸を切り裂かれる。剃刀が閃めき、麻縄が舞い、やがて、彼女らは、ぼろのように、ちりぢりに散乱して、雪に埋まったのである。
   (粕谷栄一「犯罪」より)

 まず、死んだ人間が動くことはありませんから、この詩は現実と対応していません。現実にはあり得ないことを語っているのです。この意味でこの詩はフィクションです。次に、粕谷はこの詩を初めから嘘のこととして、虚構として語っています。その意味でもこの詩はフィクションです。また、私たちもこの詩を現実に起こるものとして受け止めることはないでしょう。その意味でもこの詩はフィクションです。
 つまり、この詩はフィクションである詩の典型例と言えるでしょう。フィクションである詩を前にしたとき、私たちは、その詩がフィクションであることについて作者と共通了解があります。そして、その詩を想像の産物、虚構の産物として、その虚構の豊かさを感じ取っていくことになります。現実には起こり得ないような奇妙な物語は、それだけで幻想的で意表を突き味わい深いものです。
 では次の詩はどうでしょう。

犬は内なる犬のなかで走り
猫は内なる猫のなかで眠る
鳥は空に釘づけになったまま鳥のなかで飛び
魚は砂漠をこえて水にあえぎながら魚のなかで泳ぐ
   (田村隆一「緑色の観念形態」より)

 「内なる犬」とは一体何でしょう。そんなものは存在しないからこの詩は現実を語っていずフィクションなのだ、という考え方もあるでしょう。ところが、この詩で田村は何か真実を語ろうとしているようにも思えます。「内なる犬」とは犬の内面のことであり、その中で走るとは、犬が自分が走っていることをその内面で把握していることを言っているのだ、そう解釈すれば、この詩が真実を語っている、と解することも可能です。この意味で、この詩はフィクションともノンフィクションとも決定されません。次に、田村は本当のことを語ろうとしているように見せかけながら、自分の書いた詩が難解なものになってしまったから、嘘のことを語っていると思われても仕方がない、そういう気持ちでこの詩を書いているように思えます。その意味でも、この詩はフィクションともノンフィクションとも決定されません。また、私たちも、田村の真意を汲み取ろうとしてこの詩を本当のものとして解釈しようとする一方、初めから虚構のものとして、その虚構の真新しさ、奇抜さを楽しもうとすることもできます。その意味でも、この詩はフィクションともノンフィクションとも言えないのです。
 詩には、本当のことを本当のこととして語り、読み手もそれを本当のものとして受け取る、というノンフィクションもあります。他方で、嘘のことを嘘のものとして語り、読み手もそれを虚構として受け取る、というフィクションもあります。その中間として、本当だか嘘だかわからないことを、本当だか嘘だかわからないように語り、読み手も本当のように受け取ったり虚構として受け取ったりする、そういうフィクションともノンフィクションともつかないものもあります。私たち読み手は、ノンフィクションの詩からは、詩人の実感や主張、体験などを共有するのが良いかもしれません。フィクションの詩からは、詩人の想像力や世界構成の巧みさを楽しむのが良いかもしれません。フィクションともノンフィクションともつかない詩を前にしたときは、そのあいまいさ、浮動性に心地よく漂い、読みの自由さを受け取ってあれこれ詩の読み方を試してみるとよいかもしれません。

参考文献
清塚邦彦『フィクションの哲学』(勁草書房、2009年)


散文(批評随筆小説等) 詩とフィクション 詩と向き合う Copyright 葉leaf 2013-02-25 03:31:38
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