隠喩について 詩と向き合う
葉leaf
東へ旅立つ人々よ
にくしみを夜明けの庭に植えて
立ちたまえ
妹の胸に植えて 去りたまえ
花嫁をうばわれた機関手のために
蘇鉄はけさうすあかい綿を噴き
ふるさとの日の出をぬぐう
(谷川雁「異邦の朝」より)
詩を読んでいると、様々な隠喩に出会います。隠喩とは直喩に対する概念です。直喩とは、「彼は狼のようである」のように、喩えるものと喩えられるものの類似性を、「ようである」「似ている」などの言葉を用いて明示する表現です。それに対して隠喩とは、比喩の関係を「ようである」「似ている」などの言葉で明示することをしません。その代わりに、隠喩は、端的に「彼は狼である」と断言し、そこで読み手に違和感を感じさせます。「彼は人間であって動物ではないはずだ」などの違和感です。ですが、読み手はすぐさまそれが比喩であることに気付き、「彼と狼には何らかの類似性があるに違いない」という思慮に導かれます。このように、隠喩とは、明示的ではない仕方で、あるものと別のものの類似性を示す表現のことを言います。
さて、引用部にある「にくしみを植える」とはどういう意味でしょう。にくしみとは感情であって庭に植えることのできるものではありません。このような表現に難解さを感じる人は多いと思いますが、このような表現はいったい読み手に何を要求しているのでしょう。
まず、第一段階として、読み手は、「にくしみを植える」は文字通りに読むと無意味であるということに気付きます。にくしみという感情を物理的に植えることなどできないからです。第一段階は、読み手が、書き手が書いた言葉を文字通りに読むべきか、それとも文字通りでない解釈を探すべきか、それを決定する段階です。「にくしみを植える」は文字どおりには読めませんから、読み手はそれを解釈することに迫られます。
次に第二段階として、読み手は、「にくしみを植える」の意味となる候補を探さなければなりません。第二段階は、第一段階で読み手が文字通りでない解釈を迫られたとき、文字通りでない意味の候補を、類似性に着目して探し出す段階です。「にくしみを植える」とは、「にくしみを一旦置き去りにしながらも、のちにそれが成長するのを見守る」という意味かもしれません。あるいは、「にくしみが豊饒な果実を生らせるのを期待してにくしみを育て始める」という意味かもしれません。「植える」という動詞の持つ特徴のうち、「にくしみ」とうまく結び付く特徴の候補としては、上記の二つなどが考えられます。
最後に第三段階として、読み手は、第二段階であげられた候補のうち、文脈に照らして最も意味されている可能性の高いものを選びます。引用部では、「にくしみを植える」のあとに、「立ちたまえ」「去りたまえ」とあるので、上掲した二つの解釈のうち、「にくしみを一旦置き去りにしながらも、のちにそれが成長するのを見守る」の方が適切かもしれません。立ち去るということは置き去りにするということだからです。
このように、隠喩とは、読み手に対して文字通りでない解釈を迫り、読み手がその表現に類似する複数の意味の候補を連想することを要求し、さらに、その中から文脈に照らして適切な解釈を選択することを要求します。「にくしみを植える」は、一応「にくしみを一旦置き去りにしながらも、のちにそれが成長するのを見守る」と解釈できるのではないかと提案しましたが、ほかの解釈も十分可能だと思われます。例えば、「にくしみを大地に定着させることでより強固なものとする」など。
だから、隠喩は、まず読者を当惑させ、次に読者に連想や推論を強い、さらに決定的な意味を持つことを拒絶し読者の認識を停止させすらします。隠喩はこのように、読み手にとって大変負担をかける表現です。ですが、隠喩表現を用いてなされる書き手のこのような作用は、読者を楽しませもします。読み手はまず表現の奇抜さに新鮮味を感じます。今までにない言葉と言葉の結びつきの斬新さは読み手の目を楽しませます。そして、一つの意味に決定されないという不安定さは、逆に言えば読み手に対して広大な意味の領域を開き、その意味の浮動感もまた楽しかったりします。隠喩は難しいものであると同時に楽しいものでもあるのです。
参考文献
W・G・ライカン『言語哲学』(勁草書房、2005年)