なぜ詩を書くか 詩と向き合う
葉leaf

 詩を書く人たちの間でよく話題になるのが、「なぜ詩を書くのか」という問題です。これに対して、いくつかの答えを考えてみましょう。
(1)衝動で詩を書く。自分の中にたまったものを排泄するかのようにして書くだけ。
 これは、なぜ詩を書くか、という問いに対して、自然的で経験的な答えを出しています。詩を書く原因を、人間が物理的生物的存在であるかのようにして語っています。ここには道徳の問題はありません。もっぱら、人間の生理的な事実として詩を書くことの理由が語られています。それに対して、もっと道徳的な答えはあります。
(2)自己満足のため。書いていて気持ちいいから。人から認められたいから。
 これは、詩を書くことが何らかの意味で正しいと語っているので、道徳的な答えです。つまり、詩を書くことは自分のためになるから正しい、というわけです。きわめて利己的な答えだと言えます。それに対して、もっと利他的な答えもあるでしょう。
(3)人に喜んでもらいたいため。読む人が元気になってほしい。
 これもまた、詩を書くことが何らかの意味で正しいと語っているので道徳的です。ですが、ここでは詩を書く動機が、他人に対する義務のようになっています。ではなぜそのような義務が生じるのでしょうか。それについては、他人のためにすることが結局は社会全体の利益になるから、という説明と、他人のためにすることが良いということがなんとなくわかるから、という説明に分かれるでしょう。
 社会全体の利益、つまり、最大多数の最大幸福を目指すのが「功利主義」と呼ばれる立場です。それに対して、何が正しいかについては、人間は生まれつき直観によってわかるのだ、とするのが「直観主義」と呼ばれる立場です。功利主義は、行為の帰結によって行為の正しさを図る立場で、直観主義は反対に、行為の帰結にかかわらず行為の正しさが図れるとする立場です。
 ところが、直観主義は、人によって正しさが主観的に決められてしまうという弱点を持っています。「詩を書くのは正しい。」「ではなぜ正しいのですか?」「それは直観でわかるからだ。」これでは答えになっていません。それに対して、功利主義は、「ではなぜ正しいのですか?」という問いに対して、「これこれこういう社会的な利益が生み出されるからだ」という客観的な答えを返すことができます。
 ですが、功利主義にも弱点があります。それは、自分を犠牲にしてまで他人の利益を図ることが正しいとなぜ言えるか、という問題と関連しています。自分の幸福を犠牲にするというのは、人間にとって大きな痛手です。にもかかわらず他人の幸福を望むのが正しい、ということは、何らかの意味で「直観」しなければなりません。だから、功利主義においても、利他的行為の説明には直観が必要なのです。
 さて、「なぜ詩を書くか」という問題には、ほかにも次のような答えが考えられます。
(4)みんな楽しそうに詩を書いているから。何かわだかまったことがあるときには詩を書くと良いということがわりと常識になっているから。
 これは、「ある一定の状況では詩を書くべきだ」という規則が、社会的に最も大きな利益を生み出すから、その規則に従うのが正しい、という立場で、「規則功利主義」と呼ばれます。最大の利益を生み出すような規則は、案外人々の間で常識として定着していくものです。その常識に従うことが、自分のためにも他人のためにもなるということです。
 さて、以上をまとめましょうか。まず、「なぜ詩を書くか」という問題に対しては、事実的な答えと道徳的な答えがあります。事実的な答えは、詩を書く原因を述べるだけで、道徳的な正しさを問題にしません。それに対して、道徳的な正しさによって詩を書くことの理由とする立場が様々にありました。それには、(1)利己的な快楽とする利己主義、(2)社会全体の最大幸福とする功利主義、(3)人間の直観によって理解される正しさであるとする直観主義、がありました。そして、功利主義の中には、社会の中で形成された最善の規則に従えばそれで正しいとする規則功利主義がありました。
 私は、詩を書く理由は、上に掲げた様々な立場のうち、どれでもよいと思います。ただ、詩というものはやはり、アマチュア意識が強く、個人の密室で書かれがちなものですから、「他人に読んで楽しんでもらいたい」「社会全体が活気づいてもらいたい」という、利他的な動機があった方が、詩の世界もより広がっていくのではないかと思います。

*参考文献
児玉聡『功利と直観』(勁草書房、2010)


散文(批評随筆小説等) なぜ詩を書くか 詩と向き合う Copyright 葉leaf 2013-02-24 03:06:56
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