地を這う男
ホロウ・シカエルボク





地を舐め、四肢を擦り、蛞蝓の足跡の様に長く、滲んだ血が道をなぞり、呻き声はふしだらな鍵盤の様に、汚れた口腔から漏れ続けた、頸椎が、背骨が、あばら骨が軋み、歪な尺骨と脛が、そうしてきた時間の長さをありありと語っていた…語り続けていた、頭髪は長かったが、所々奇妙に抜け落ち、赤ワインのような地肌を晒していた、毛先が、地を這う四肢に巻き込まれて引き千切られるのかもしれない、そうして見れば、あの頭皮の色味にも合点がいく―額には果物の皮のように血管が浮き上がり、冬の最中だというのに汗が滲んでいた、脂汗や、冷汗などではなく、筋肉に力が入り続けているということを語る汗だった、それは時折痩せこけた頬の骨を伝って、道に落ちた、汗が落ちたところだけ流れた血の色が薄れ、趣味の悪い風景画の様な風情を思わせた、目はそもそもは大きいのだろうが、長い苦痛に細く縮み、より一層力が必要とされる瞬間には完全に閉じられた、再び目を開いた時には、滲んだ汗が目の端から入り込み、その為に激しく瞬きをしなければならなかった、それから再び流れ出す汗は涙の様に、その表情も相まっておよそ涙そのものと言ってもいいような風に見えたが、当の本人にはきっと、涙を流すつもりなど微塵もなかった、その理由は、彼の背後に見える、彼が這いずって来た時の長さと、半ば失われてはいるがまだありありと盛り上がる全身の筋肉から容易に窺えた、食べることを良しとしていないのか、あるいは食べようという気が起こらないのか、死んでしまうのではないかと思えるほどに消耗して痩せ衰えているのに、時折外野のものが親切にも投げ与える食物には一切手をつけようとしなかった、金を投げ与えるものもいたがそれにも同様に興味を持たなかった、冷やかしにも、励ましにも、問いかけにも答えようとはせず、耳を向けている様子もなかった、もしかすると、耳も聞こえなければ口もきけない、そういう人間かもしれなかった、だが道端で彼を見つめているものたちには、前述したような理由からまるでそれを確かめる術は無かった、目は見えていた、それは誰が見ても明らかだった、細められた目は時折かっと見開かれ、自分が道を誤っていはしないかと確かめていた、その時の目は野生の獣のように厳しく爛々としていて、それが間違いなく彼の意志によって行われているのだということを雄弁に語っていた、彼は呻きながら、己の肘から、膝から溢れる血液を地表に塗りつけながら前進し続けていた、時折り諦めかけるように首が垂れたが、身体を大きく膨らませたりすぼめたりして何度か息を継ぐと、再び前を向いて這い始めるのだった、時折り気を失いかけているのではないかというように黒目が非常に上を向いて、目蓋の中に隠れてはまた戻ってきた

この男はどうしてこんなことをしているのだろう、と、道を行く誰もが好奇と驚きと嫌悪を持って彼のことを見つめていた、中には、距離を置いて後ろを着いてきているものも何人かいた、後から彼を見つけた人が、先にそこに居たものにこれは何なのか、と尋ねている光景がそこらで見えた、そうした光景の中に居るものたちは年齢も性別もまちまちだったが、彼らに共通しているのはこの男が道を這っている理由は判らないということだった、彼らはしばらく立ち止まって男を見つめ、やがて首を横に降って離れて行ったり、男の身体から流れる血を見てぶるぶると小さく震え、顔をしかめて立ち去って行ったりした、たいていのものは知らなかったが、それは朝の早い時間から始まり、昼を過ぎても続いていた、そして誰もがそこで繰り広げられていることの圧力に屈したように這う男を見つめていた

もう間もなく夕焼けが始まるというころだった、人混みの中から一人の大男が飛び出して、地を這う男を蹴り飛ばした、この大男は、地を這う男のせいで生まれた混雑にいらいらしながら歩いていたのだ、大男の激しい蹴りに、地を這う男は横倒しになった、蹴りは一撃では終わらなかった、痩せた男の身体の方々を折ってしまうほどの勢いで、大男は蹴り続けた、地を這う男の顔や身体は見る見るうちに膨れ上がり、これはまずいと思った何人かが警官を呼びに行った、警官はすぐに現れて、彼を呼びに行った数人の男とともに、大男を取り押さえた、警官は道の上に横たわっている痩せた男を見た、警官は朝のうちに、彼を止めようとしていたのだった、しかし、なにをどうしても彼を止めることが出来ず、そのうち諦めて業務に戻っていたのだ、何人かの町民がその後も、地を這う男のことを知らせにやって来たけれど、なにか面倒なことになるようなら呼びなさいと言って相手にしなかった、まさかこんなことになるとは思わなかった、痩せた男は血を吐いていた、内臓に傷が付いているような鮮やかな血だった、俺が殺したようなものだ、心の苦痛に警官が顔を歪めたその時だった、もう死んでいたかに見えた男が再び青褪めた身を起こし、四肢を道につけてまた這いずり始めたのだ、誰ももう何も言うことが出来なかったし、動くことも出来なかった、さっきまで激しい剣幕で彼を蹴りつけていた大男までが、呆気に取られた様にぽかんと口を開けて地を這う男の意志を見つめていた、男の姿が道の先で小さくなるまで、誰もそこを動くことが出来なかった、やがて夜が訪れて、民衆はどこか諦めたみたいにそれぞれの住処へ戻った、地を這う男がどこへ行ったのか、誰にも判らなかった、翌日になっても道の上に刻まれていた彼の血を辿れば、もしか死体でも見つけることは出来たかもしれないが、町の誰一人としてその血を辿って行こうとはしなかったのだ。






自由詩 地を這う男 Copyright ホロウ・シカエルボク 2013-02-17 14:18:29
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