僕が思う現代詩と合唱の関係について(7)
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僕が思う現代詩と合唱の関係について(7)
僕の部では合唱曲を一から作り上げて行くとき、必ずと言っていいほど、最初の一週間は
絶対に苦労する。その曲が難しければ難しい程。
なぜなら全くその曲に込められた音の意図がチンぷんかんぷんだからである。
難解な詩、難解な音、難解なディナーミクや音楽記号との絶え間ない格闘…海外作品をや
る時には更に大変で外国語の発音から詩の翻訳までしなくてはならない、しかも海外の合
唱曲って古語のラテン語が多いものだから結構大変な作業である。
「水のいのち」という名曲を完成させた高田三郎はこう語るとかなんとか
「私は楽譜につけた一一音音全て、なぜその音をつけたか説明することが出来る」
そんなことを作曲家から言われたらなぜその詩の言葉にその音をはめたのか曲を歌う僕ら
は考えなければならないではないか。
そんな感じで僕たちは一週間、二週間を過ごしていく。すると、少しずつ詩が、音が見え
てくるのである。
そう、ここがポイントだ。
合唱をする、ということは「詩」の鑑賞を同時にこなすということなのである。
学校の授業とは違い、1つの「詩」をものすごい時間の長さを使い鑑賞することが出来る
のだ
すると、今まで難解だった詩の内容が序序に分かってくる。
合唱曲とは作曲家がそのテキスト(=詩)から描いた解釈を「曲」形で表現したものに等し
い。だから僕たちは「僕たちによる」テキストの解釈を頼りに作曲家の解釈へ近づこうと
する。
なぜ作曲家はここにデクレッシェンドをつけたのか。なぜここはモルトアジタートなの
か。
見えてくる見えてくる、詩が分かってくる読めてくる。曲が分かる。
こうなってくると、みんな放課後部室に集まって勉強しながら詩の解釈を口々に言い合う
ようになってくる。高校生が放課後に集まって繰り広げる解釈合戦は中々熱いものだ。中
には詩の作者の書いた著書を洗いざらい図書館から借りてきて解釈しようとするやつもい
る。なぜこの詩が書かれたのか…その背景を探る為にあらゆる手段を使い調べてくる奴も
いる。
因みに…
一般の団体の指揮者の中には、海外まで飛んで(因みにその人サラリーマンである)その詩
のルーツを調べつくし、見事一般団体の全日本合唱コンクールで金賞を獲得した人もいる
そうだ。
ここまでくると、みんな詩に夢中になってくる。
そして後は、こうして練り上げた解釈を楽譜の音に込めて、1つの音楽を合唱の世界を細部まで作り上げていくのである。
この作業はとんでもなく面白い。