ホルバインの描く奇妙な染みと静けさ
樹圭介

猫なしのにたにた笑いなん
て!あんな奇妙なものを見
たのは生まれてはじめてだ
わ!『不思議の国のアリス』

誰かと誰か、何かと何か。それらがそこに在る
というただそれだけのこと。例えば、東に向か
って歩けば影を追いかけることになるような時
間を、光が所与の役割を放棄したと呼ぶのも、
あなたがたの自由だし、それが何かの始まりな
のか、何かの終わりなのか、またの何かの終わ
りなのか。長い沈黙。悪い例えだ。偶然で曖昧
な世界の死を現在形の独白で書きたい欲求に駆
られている。それもそのはず。思い出の腐った
堆肥を載せたトロッコは何処へも辿りつけない
のだから。注意。けれど、あなたがたはそのこ
とを嘆いてはいけない。寧ろ、彷徨う旅人をせ
せら笑う幸運が我が身に在ることを主に感謝し
なければならない。

なす術もなく立ち尽くす老女よ。あなたは美し
い。けれど、老女よ。私はあなたと会うことは
決してない。それを望みもしない。注意。誰か
が見れば、立ち尽くす女と立ち尽くす男。黄昏
時。草木の一日の末期の輝き。山の稜線が赤く
染まる。彼らは驚いているかもしれない。彼ら
以外の生き物の微かな気配さえ感じられないこ
とに。ここは世界の果て?あるいは世界の終わ
り?そう考えたとしても彼らを責めることはで
きない。注意。天候。朝から曇り空。気の早い
星が西北西に顔を出している。雨?お望みなら
数滴。朝の数滴。最後は現在形で。

目をどこにおこうとも何も証拠がない。目は退
却し狂女がそこに現れる。やっとまず岩棚の影
が現れる。我慢しているとその影は死にかけた
残骸で息をふき返す。最後に一つの頭蓋骨全体
がはっきり浮かびあがる。こんな残骸同然のも
ののあいだでただ一つ見るべきもの。彼はまた
岩のなかに前頭骨を戻そうとする。目の窪みに
は昔のまなざしがかいま見られる。ときどき断
崖は消える。すると目は白い遠くに飛んで行こ
うとする。あるいは前方から目をそむける。


自由詩 ホルバインの描く奇妙な染みと静けさ Copyright 樹圭介 2013-02-10 17:52:37
notebook Home 戻る