動機
三田九郎

一 「詩人」について

 柴田トヨさんの訃報があってすぐ、NHKの朝のニュースで加島祥造さんを見た。こういう人達が「詩人」とくくられてしまうのには、正直、違和感がある。相田みつをさんもそう。宗教的な悟りを交えた諭しのようなものを、果たして詩と呼んでいいのだろうか。

 例えば『現代詩手帖』などを手にして、いわゆる現代詩と呼ばれるものを書く人達の詩を読んでみても、違和感は拭えない。これが詩なのだろうか。こういうものを書くのが「詩人」なのだろうか。現代詩の場合、正直に言って、そもそも意味が分からない。僕が不勉強だから意味が分からないということなのだろうが、読み手に学びを強いるようなものは趣味じゃない。突き放されているような断絶を感じてしまって、近づけないし、近づく気になれない。

 「あんなのは詩じゃない」とか「こんなのは詩じゃない」とか、そういうことを言いたいのではない。あれもこれも、書く人が「これは詩だ」と思って書くものなら何だって詩なのだ。そういう度量の広さが詩のよさなのだ。そういうことにしておかなければ、何よりも僕の詩が「詩ではない」「おまえなんか詩人じゃない」ということにされてしまいかねない。

二 小説について

 小説を読んでいてたまに思うのは、これだけのことを伝えるためにここまでの物語が必要なのだろうか、ということ。

 例えば「前向きに生きていこう」ということを伝えるために、数百ページにわたる費やされていたりする。もちろん、登場人物が背負った人生、直面した事件、苦難、そういうものと向き合い、乗り越えてきた歴史、そういったものが具体的に記されてこそ伝わってくるものがある。物語によって提示されるものと、「前向きに生きていこう」の一言とでは重みがまるで違う。読者の心に響くものが違う。

 しかし、それでも思ってしまう。小説は手が込みすぎているのではないか、と。

 もちろん、僕には小説を書くだけの力量がない。小説を書いてみたいと思うことは昔からあったが、自分が納得できるようなものを書き上げることができたためしはない。
 けれど同時に、そうした経験も踏まえて今思うのは、僕の性向に、小説という手段は合っていないということ。僕は、自分の内面を、もっと、直接的に、脚色を少なく、書きたいと思っているのだ。

三 私小説から物語を剥ぎ取る

 僕は、自分の内面を、もっと、直接的に、脚色を少なく、書きたい。

 つまり、僕の中に渦巻いている、小説にすれば私小説になるであろううごめきを、小説という手の込んだ手法を使わずに、書きたい。私小説から物語性を剥ぎ取ったもの、そういうものを書きたい。それが、僕が詩を書く一番の動機になっている。

 そうして書き上げたものが、ひとつでも、少しでも、誰かの心に届けば、これ以上うれしいことはない。


散文(批評随筆小説等) 動機 Copyright 三田九郎 2013-02-09 06:19:31
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