現代狂言
般若(シテ)、男
男 母上様、母上様。
般若 なに用。
男 それがしの願いをお聞き下さいますか。
般若 事と次第による。
男 薄情な。それが
垂乳女の御心根でございますか。
般若 ふむ、母を万能とでも心得るやら。わしもか弱き女性に過ぎぬわい。
男 なれど、なれど、それがしを大事とは御覚え下さいますか。
般若 ならば、ならば、それはもう、何に代えてもそなたを大事と覚う。
男 ならば、お聞き下され。
般若 さらば、聞くだけ聞こう。
男 どうぞ、それがしを産まずに下さいませ。
般若 何と。
男 この鬼灯にてそれがしをお流し下さいますよう、御願い申し上げる次
第にございます。
般若 気でも触れたか。血肉を分けた子を宿す母に、吾子を愛してやまぬ親
に殺せと申すか。命を絶てと願うか。出来ると思うか、思うのか。
男 それを伏して御願い申し上げるので。これ、この通り。
般若 おとろしい事を。聞かぬ、聞かぬ。
男 それがしは生まれとうございませぬ。生きとうないのでございます。
般若 ええ、まだ申す、母の胸刺す言の刃を。
男 申しましょうぞ、何振なりと。それがしは、生まれたところで幸では
ござらぬ。長らえたとて、死にたいばかりでございますゆえ。
般若 嘆かわしや、恃みの倅がかくも痴れ者。
男 お産みになるならば、母上こそが無残に吾子を斬り捨つる事と相なり
ましょうぞ。
般若 幸も不幸も親に帰するか。不甲斐ないにも程がある。
男 いかにも。不甲斐ないのでございます。
般若 ふむ、開き直る。生まれたからには生きで如何する。そなたには手も
足もある様子。何なりと掴めよう、何処へなりと歩けよう。路は己で
拓くもの。
男 掴めど掴めど空、歩けど歩けど闇。それがしの路は、拓けど拓けど泥
沼にございます。
般若 足らぬからよ。徒手空拳の手数が足らぬ。無駄足の里程が足らぬ。く
たぶれ儲けの銭高が足らぬ。
男 ならば御覧じろ、この足の浦。
般若 おゝ、汚らしや。面がひび割れ固くなり、指の股にも泥濘びっしり。
男 したり、したり。もはや歩かれませぬ。
般若 なれど、福は望めぬまでも、歩かで幸は掴まえられよう。頭を使え、
頭を。人は自ら足るを以て幸となる。これ、そなたの手指は幾つあ
る。順繰りにへし折れるまで、そを指折り数えるがよい。
男 したり、したり。仰せの通り、十の指すべて折れております。
般若 何と哀れな、労しい。おゝ、胸が痛む。おゝゝ、胸が痛む。
男 西より東、北より南、無駄足踏み踏み、踏み抜きましてございます。
生まれてよりこのかた、徒手空拳を日々数え、数えに数えてこれ、こ
の通り。
般若 時に、そなたは幾つになった。
男 齢でございますか。三十にございます。
般若 三十か。はや三十。否、まだ三十。ちと気が早くはあるまいか、何も
かも知り済ました顔をするのは。
男 もはや三十なのでございます。この先何が変わりましょう。もう充分
にございます。
般若 はて。言われてみれば充分のような。否、思いなせば不足のような。
三十、三十。いかにも宙ぶらりんな嵩。否、否、さればこそ。三十と
言えばそなたを元服させた齢。肩の荷降ろした心持とて、わしはまだ
まだ若くあった。若くあったぞ。
男 はて、元服の時。さてもあの朝、母上はそれがしを御覧になり、わし
とて老いた道理よと、しとど涙に暮れられたような。
般若 はてさて、とんと覚えぬが。
男 さても御身の覚えとは、事と次第によりますな。
般若 そうじゃ、そなたも身を固め、子を生すがよい。いつまでも独り身で
ふらふらしておれば、気楽もいつやら気塞ぎとなる。側に育つ者あら
ば、幾分なりとて気が紛れよう。
男 さても笑止を。生きとうもない者が子を生していかにします。
般若 ふむ、左様であったな。さあれどそれが人世の定め。無体な夢見に醒
むればこそ、人は現に己を飼い馴らすもの。捨ててこそ浮かぶ瀬もあ
る腹づもり。
男 己がいつきを嘗め続ける犬ざまに、空手にのの字、のの字を書いて足
る、そを幸と呼べと仰せとは。母上の俗性には吐き気が致しますな。
般若 俗で悪いか。そなたは人世を何と心得る。俗とはそれよ。そなたもそ
こに生まれたからには俗性じゃわい。今生が天上人の飛び歩く大伽藍
とでも思うたか。それこそ笑止よ。
男 さればこそ、生まれとうないのでございます。
般若 得手勝手を申すな。生まれて来とうて生まれ来た者など何処にあろ
う。皆、俗に倣うて生まれて生きる。そなたもこれより俗に習え。
男 厭でござる。生まれる生まれぬは親の都合。さあれど生きて行くのは
それがしの次第。生きる生きぬはそれがしが決めます。
般若 さまで申すならば致し方ない。勝手にせい。
男 しからば。
般若 これ、何とする、何とする。
男 それがしを間引くのでござる。
般若 無礼者、親をば何と心得る。こうしてくれよう、こうしてくれよう。
男 痛い、痛い。
般若 子宝に手を掛けさせてなるものか。ええい、ええい。
男 おやめ下され、おやめ下され。
般若 死にたくば、未生にあらず今生が身に手を掛けよ。
男 とんと勇気がございませぬ。
般若 ならば生き死に口走るな、人前に。
男 なれど生き死に負わせて産みたるは、母上その人。
般若 まだ申す。情けなや、あゝ、情けなや。
男 申します。産の戸口は閉ざして頂きたく。
般若 これ、何とする。こたびはいかに。
男 かがります。針と糸もて縫いとじます。
般若 狂うたか。
男 何とでも。未生と今生の道封ずれば、生苦も死苦も塞がれる。
般若 何たる無残。阿呆が、否、吾子が狂うた。
男 吾子吾子と気安う申すな、女性の鬼め。
般若 あれ、あれ、誰か。
男 待て、待て。
般若 待つものか。
男 待て、待て。
般若 待つものか。
男 鬼待て、鬼待て。
般若 鬼は手前よ。
男 鬼をば追うて、ぐるぐる。
般若 鬼より逃げて、ぐるぐる。
男 吾子を助けぬ鬼をば追うて、ぐるぐるぐる。
般若 鬼と化したる吾子に追われて、ぐるぐるぐる。
(謡) ぐるぐるぐる、回るほどに足もつれ
ぐるぐるぐる、回るほどに息も切れ
堂々巡りは涯もなく
堂々巡りはくたぶるる
男 追うておるやら、追われておるやら。
般若 追われておるやら、追うておるやら。
(謡) 鬼め、鬼めと追わるるようで
あれよ、あれよと追うようで
かくしてどうと倒れ伏し
子亀の背に親共倒れ
男 重い。のいて下され。
般若 のいてなるか。
男 これでは追われませぬ。
般若 終わるとな。嘘をつけ。
男 嘘ではござらぬ、終われませぬぞ。
般若 否、否、追わせぬ。追わせぬぞ。
男 否、負うております。この通り。
般若 否、追うてはおらぬ。この通り。
男 母上、重い。重いでござる。
般若 嘘をつけ、そなたの何処が母を思う。
男 毛ほどにも思うてはおりませぬ。母上が重いので。
般若 したり、したり。腹にそなたがおるものを。
男 されば、こは不条理の重さにございますな。
般若 たわけ、子は理の重さ。鬼ごこはお仕舞じゃ。
男 いかにも鬼の子、いかにも鬼の子。
般若 まだ申す。さても痴れ者、鬼は手前よ。