あずきの恋人 (最終回)
たま

 鈴木さんと、大王さまはスロープに向かって、ゆっくりあるいて行った。そうして、青白い灯りのなかに立って、わたしに手をふってくれた。
 さようなら……。
 わたしもちいさく、手をふった。

 あかるい星空に、灰色の円盤は音もなく吸い込まれて行った。
 ちいさな、ちいさな、オレンジ色のひかりの輪をひとつ、地球に残して……。


 夏休みはきょうまで、あしたから二学期がはじまる。
 朝からとてもいいお天気だったけれど、わたしはどこにも出かけるつもりはなかった。部屋の窓もドアもおおきく開けて、扇風機をまわして、首にタオルをまいて絵本を描いていた。あしたは、由美ちゃんに絵本をみせるねって、約束してたから、ちょっと、焦っていたけれど、もう、ほとんどできていて、まだ、できていないのは表紙のタイトルと、さいごの一ページだけ。
 机のうえにスケッチ・ブックをひろげて、筆や、パレットや、筆洗を置くとせまくなるから、消しゴムとかが、すぐにどこかへいってしまった。
 あ、また、消しゴムがない……、もぉ。
 椅子をよけて、机の下をさがしたけれどもみつからない。ベッドの下に転がったのかもしれないと思って、床のカーペットに顔をこすりつけてさがしたら、
 え……?
 鈴木さんのガラス玉がベッドの下に転がっていたの。
 あれぇ? わっ、いけない!
 わたし、ガラス玉を返すのを忘れていたんだ。
 だいじょうぶかなぁ、鈴木さん……。
 きっと、たいせつなガラス玉なのに、いまごろ、大王さまにしかられているかもしれない……、ん……、ごめんね。
 しばらく、ガラス玉をにぎりしめて、わたしはぼんやりしていた。もう二度と、オレンジ色にかがやくことはなくても、このガラス玉さえあれば、いつか、かならず、外山先生に会うことができる。わたしはそう思った。
 あ……、そうだ。
 鈴木さんはこのわたしに、ガラス玉を残してくれたのかもしれない。きっと、そうなんだ……。
 ありがとう、鈴木さん……。

「あずきー、ねぇ、あずきー。」
 おかあさんが階段の下で呼んでいる。
「なにー? おかあさん。」
「カキ氷つくったから、おりてきてー。」
 あ、もう三時なんだ……。
 牛乳やバナナやメロンが入っている、かあさんのカキ氷は夏休みのたのしみだったけれど、ことしはもう、おしまいかもしれない。わたしがキッチンのテーブルでカキ氷を食べていると、おかあさんはリビングの窓辺に立って、なぜか心配そうに外をみていた。
「どうしたの、おかあさん?」
「ねぇ、あずき……、きのうからイチローさんがやってこないの。どうしたのかしらね。」
 あっ……、やばい。どーしよう……。
 わたしは知らないふりができなくて、困ってしまったけれど、ほんとうのことも言えなかった。
「あ……、おかあさんごめんなさい……。」
「え、どうしたの?」
「あのね、鈴木さんね、引っ越しちゃったの。」
「あらっ、鈴木さんが?」
 うん……。
「でも、どうして? イチローさんと関係があるの?」
「うん……、イチローはね、鈴木さんとこの家猫だったの。」
「えー、ほんとうに? あらっ、じゃあ、イチローさんも引っ越しちゃったの?」
「うん……、だまってて、ごめんなさい。鈴木さん、急に引っ越しちゃったの……。」
「そうなのぉ……。」
 おかあさんはなんだか気がぬけてしまったみたいに、リビングのソファにすわりこんでしまったから、わたし、心配になって、おかあさんのとなりにすわったの。
 おかあさん……、かなり、ショックだったかもしれない。
「でも……、イチローって、ふしぎな猫だったわね……。おかあさんね、イチローがそばにいると、ときどき、外山先生かしらって、思ったりしたの。」
「うん、わたしもよ……。」
「ほら、あの絵本教室って、なんだったのかしらね。ねぇ、あずき……、鈴木さんって、ほんとうに木星からやってきた、魔法使いだったかもしれないわよ。」
「え……? あ、そんなことないって、やだぁ、おかあさんったら……。」
「そうかしら……。」
 おかあさんは女の子みたいな顔をして、ため息をもらしていた。
「あらぁ、どうしたの? なんだかふたりとも深刻そうねぇ……、ほっほっほ。」
 おばあちゃんがやってきて笑ったから、おかあさんも笑って、ちょっと、元気がでたみたい。おばあちゃんがいつもの、テレビドラマの録画をみたいって言うから、おかあさんがテレビを点けている間に、わたしはこっそり二階の部屋にもどった。
 おかあさんにはしばらく、いい子でいようと思った。
 
 さて、絵本の表紙に、登場人物が全員そろったから、わたしはタイトルをつけた。
 『あずきの恋人』……って。
 ちょっと、はずかしくて、由美ちゃんにツッコまれたら困るけれど、わたしはすごく気に入ったの。
 タイトルの下には、ひだりから……、
 イチロー。
 わたし。
 おかあさん。
 おばあちゃん。
 おとうさん。
 鈴木さん。
 大王さま……、そして、
 外山先生。
 みんな笑って、なかよく並んでいる。
 表紙をめくると……、
 わたしの部屋の絵。外山先生が書いてくれた、ちいさな付箋が貼ってある。
/わたしはここにいます。
 それは、わたしの声だと、外山先生は言った。
 おとうさんに勧められて、わたしは絵本を描き始めたけれど、それは「手でさわれないもの」を描きたかったからだと思う。
 イチローだった外山先生は、それを知っていたはず。だから、おかあさんと、わたしを絵本教室に誘い出して、「手でさわれないもの」を、わたしに教えようとした。
 もちろん、外山先生のほんとうの目的は、おかあさんに会うためだったけれど、わたしの絵をみて、たくさんほめてくれたし、いまのわたしに必要なことも、たくさん教えてくれた。
 そんなふうに外山先生は、わたしに魔法のような暗示をかけたのだけれど、ほんとうに暗示をかけたかったのはわたしではなくて、おかあさんだった。
 絵本教室のあと、イチローにもどった外山先生は、おかあさんの気持ちをしっかり掴んでいたから、あのまま、イチローにとって、しあわせな生活が続くはずだった。
 わたしが鈴木さんにお願いして、猫になったのは、外山先生も予想できなかったと思う。だから、あの夜の、外山先生はほんとうに困ってしまって、わたしのわがままなお願いを、聞いてくれたのかもしれない。
 そう、あれは、わたしの身勝手なわがままだった。
 もし、大王さまが地球にやってきたのは、外山先生を救うためではなくて、鈴木さんを救うためだったとしたら、外山先生はほんとうに人間に戻りたくて、戻ったのではなくて、鈴木さんに感謝したくて戻ったのだろうか。
「あずきさんは、あずきさんを愛していますか……。」って、外山先生はわたしに聞いたけれど、「手でさわれないもの」は、「わたし自身」なのかもしれない。
/わたしはここにいます。と、外山先生が書いたのはそういう意味なんだろう。
 外山先生はそれを知っていたから、わたしが、わたしを見失わずに、生きて行けるようにと、教えてくれたはず。
 生きていればかならず、未来はやってくる……。きっと、外山先生もそう願って、中学生に戻ることができたのだと、わたしは信じたい。
 絵本が完成したら、もう、何もかも思い出になってしまうのだろうか。
 ちょっぴり、くやしいけれど、描ききれなかった絵が、たくさんあったように思う。でも、だからこそ、わたしの絵本のなかには、「手でさわれないもの」がたくさんあって、わたしの思い出のなかでずっと、かがやき続けながら、いつか、この絵本を、外山先生にみてもらえたら、わたしの絵本は、ほんとうに完成するのだと思う。
 その日がくるまで、わたしはつよく生きていたい。この絵本をいちばんに、見せたいひとのために。

 さいごの一枚は、
 イチローのうしろ姿をちいさく描いて、わたしはことばを添えたの。


 わたしの未来の恋人へ。




                   おしまい。















散文(批評随筆小説等) あずきの恋人 (最終回) Copyright たま 2013-01-26 14:13:34
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