深い森
HAL

過去に戻りたいと
思ったことは
一度としてないけど
あの夜にだけは戻りたいと
時々想うことがある

そう きみと初めて寝たあの夜
ぼくらはお互いに
そんなに経験はしていなかったけど
とてもぎこちない性行為だったけど
でもぼくはあの夜をいまでも想い出す
きみの小さく少し硬い乳房
ぼくにもきみにも若さしかなかったけど
でも あの夜 ぼくらは結びついていた
きみの性器とぼくのペニスは交わっていた

短い交合の後
きみは部屋の窓を開けた

初秋の少し冷たい空気が
ぼくらの交わりを洗い清めるように
部屋を充たし
ぼくは確かに一緒に流れ込んできた
深い森の匂いを憶えている

ベッドに横たわったままのぼくの眼には
蒼い月の光が囁きのように映っていた
きみのさっきまでの全裸とは違う
静かな裸体の背景として

あの夜だけだった
性交の後に深い森の匂いが実在したのは

その後 ぼくらは大学を卒業し
もう消息は途絶えてしまった

でも きみの住んでいた
小さな街のどこにも森なんてないのに
ぼくはあの深い森の匂いを時々想い出す

それから少なくはない女性と
夜を共にしたけど
あの夜の深い森の匂いは
あの夜のものだけだったんだと
ぼくは少しづつ知っていくだけだった

あの深い森の匂いに包まれるなら
あの夜にだけは戻りたいと
時々 ほんとうに時々だけど
戻れるならと強く想う

あの深い森の匂いに
きみも包まれたのだろうかと
訊ねるのを忘れたことだけが
後悔としていまもなお残っている

もうきみの名字すら忘れてしまい
名前しか想い出せないでいるのに

でもぼくはふと思うことがある
もしかしたらあの森の匂いは
きみの心に生まれた深い森の
匂いではなかったのだろうか

そしてもしかしたらきみはぼくが
心に深い森を抱えていることを
知っていたのでないだろうかと

もう惑星として呼ばれない
冥王星よりも遠い遠い夜に


自由詩 深い森 Copyright HAL 2013-01-24 17:03:11
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