ホットフラッシュガーデン
Lucy
そんな私は精神衛生のためにいいことならなんでもする。
休みの日にはカンテレのCDを聞き、最近友人に勧められた黒豆茶を飲み、天気のいい日は庭に出る。
花を植え、草を抜き、レンガを並べ、水やりをする。
日がな一日そんなことをして過ごすと
ほんの少し病は回復する。
精一杯に健全な精神で、この国の病について考える。
そう私たちおばさんはみんな病んでいる。
少なくとも、病んでいることを自覚しているので
会うと病状を尋ね合い、みんな朗らかに励まし合う。
成長した息子が家を出ていった寂しさも
年老いた親の介護をする苦労も
定年の夫が家に居る疎ましさも
笑い話にして分かち合う。
けれど無自覚なおじさんたちもまた病んでいる
知らない間にうつ病になり自殺する働き盛りの大人たち
だからと言って若者たちがのーてんきに生きてるわけじゃない。
もっとも辛い思春期の孤独をくるしく病んでいる若者たちは
助け合う方法さえ持ってはいない。
病んでいる人々の重みに耐えきれず
根腐れしていく社会に押しつぶされていくのは
まだ病んでいない子ども達 明日の未来を担うはずの
私たちの社会はそんな子どもたちをひとりとして守れるか
病んだ母親の手によってなぶり殺しにされるおさなごを
ひとりとして救い出すことができたか
声も出せずに受難する赤ん坊を
みんなして見殺しにするよりほかに能がない
そして姥捨て山のように
法の谷間に捨てられて飢え死にする老人をもひとりとして助けない
そんな事を思いながら
けなげに咲いたタンポポを引き抜き
のたうつミミズをうっかり切断する私
そのうち体が必要以上に熱くなり
汗が滴り落ちてくる
けれど私は負けない
私は少なくとも希望を捨てない
私だけでも明るく生き抜いていく
私の周りの家族、同僚、ご近所さんとだけでも笑顔を交わし合い
ゆがみ衰えたこの社会の片隅で
人のまごころを信じて生きていこうとする
それはもう滑稽さを通り越してどうしようもなく行き詰った不景気の世の中に向けて、絶えず垂れ流されるテレビのお笑い番組にも似て、虚しく明るく、どこか必死で、それ自体なにかを確実に蝕んでいくことを忘れながら
花を植える
花を育てる
色鮮やかに季節の谷間を塗りこめていく 私は今日も
笑って生きると病んだ自分に言い聞かせ
笑い過ぎる朗らか過ぎるおばさんもまた病んでいることを思い出す。
結局は思春期の頃と同じ願いを抱いて生きる。
いつも理知的で冷静な強靭な精神力と鈍らない感性を保ち続け
人に流されず、時代に染まらず、しかししなやかに理解しユーモアで返す知性を身につけたい
行動する勇気と、諦めないしたたかさと、たゆまぬ希望と、愛する心を・・・
そんなものはいつも後ろから誰かにからめ捕られ
操り人形のようにいいように操作されるのが関の山
私が一生懸命に自分の頭で考えたり
感じたりすることが最近この国の多くの人の平均的な見解と
ほとんど一致してしまうのはなぜか
言葉はあふれ、垂れ流しされ、
言葉は奪い去られ、言葉は支配される
言葉は既に個の表出としての意味をなしえない。
おばさんが笑って生きようが
腹立ちまぎれに誰かに意地悪してようが
世の中は何一つ変わらないのかもしれないが
少なくとも誰かを一瞬でも幸せにすることができるかもしれない。
もうちょっと憎み合い
もう少し不幸になるかもしれない人を
人知れず救うことができるかもしれない。
私がその気になれば凶器なんて持たなくたって
十人や二十人の人間を
素手で不幸のどん底に叩きこむことぐらい朝飯前だ。
けれど、それをしない。
それをしないで耐え抜くことで 世界の平和を
この一角で歯を食いしばってせき止める。
笑っているおばさんがみんなどれだけの苦悩を背負って、
どれだけの骨の痛みや関節の痛みや心の痛みを耐え抜いて
笑っているか知らないでしょう。
異常に朗らかで、親切で、お節介で、実に厚かましいおばさん達が
どれだけの力で踏ん張って、この国の平和を支えているか知らないでしょう。
決して目立たず、立派なことも言わないで、
日々黙々と栄養のあるものを作り
誰かに食べさせ、
他人の愚痴には耳を傾け、
せいいっぱいに共感し、
気づかれないようにさりげなく人には親切にして
テレビのニュースを見ては涙を流し
新聞を読んではおろおろ歩き
そしてみんなにおばさんと呼ばれ
誉められもせず苦にもされず
そういうおばさんに
私はなりたい・・・。
西日が
照りつける庭の隅で
片っ端からすごい勢いで
とりつかれたように草を抜く 私の背中に
太い槍のように陽光の束を
どんと突きたてるものがある
体の芯が一気に発熱
顔が膨張し 汗が噴き出してくる
まけない
私は希望を捨てないと
一心にただ草を抜く。
(二0一0年六月)