木は孤独だろうか?
すみたに



 学芸会をやることになった。先生が教室に入ってくるなり、明るい表情に、楽しげな声調で言った。「笠子地蔵をやることになりました」と。俄かに教室は騒がしくなった。誰でもそうだが、人が集まるとこういった凡庸な事柄で騒ぎ立てたくなるのは、全く子供の時からの習性なのだろうか。
 結局配役は次々と決まっていく。とりわけ人気なのが、笠地蔵の一団である。台詞は少ない割に目立つ役だからである。そして、どうせ目立ちたいなら主人公夫婦をやればいいものだが、これが誰もやりたがらない。ましてや男女のどちらかが先に決まってしまうと、阿呆が囃したてるのだから厄介だ。初めは順調に決まっていた役割だったが、最終的に七つの役が残ってすっかり停滞してしまった。主人公夫婦(老年)、主人公夫婦(青年)と、村人三、それから木の役が二人であった。決まっていないのは男が私を含めて三人で、女が四人だったが、女衆が村人三や木の役は絶対にやりたくないと泣き出す始末であったために、一時全体の配役を見直したが、小学生の強情は周知のとおりで、改められることなく、結局老年時代も青年時代も主人公夫婦は男女ともに女がやることとなった。さて、これで男三人が村人や木をやるということで落ち着くか、そう思った時だった。男の一人が突如席を立ち、先ほどまで駄々を捏ねていた女の一人の頬を引っ叩いたのだ。一瞬の沈黙ののち、耳をつんざくような男女の啼き声が教室一杯に響いた。叩かれた方も、叩いた方も泣き出してしまった。こうなると、生徒全員操縦不可能となり、教室は一変無政府状態。
 五分後には鐘が鳴り、教師は黙って出て行った。そして反って平静が突如訪れるのだ。
 その日の放課後、教師は生徒を集めて先に不可能となった調整を続行した。結果、女の一人が、翁役を男に譲ることとなり、その譲った女は木の役に回された。女の頬はもう紅くないが、眼が腫れている。私が近付いて「大丈夫か?」と声をかけたら、再び腫れぼったい眼が潤わせ、頬を紅く染めた。その可憐な表情に一瞬たじろいでしまったのは、秘めたる恋情が揺れ動いたからであろう。私はその歳にして一体何回になるか判らない程の恋をしていたから、もう余程でない限り心を動かされることなどないと思っていたものだが、不意に見せる女のそういった表情が心を掴むことはありえることだ。私は彼女と同じ木の役になることに仄かな幸福を感じていただろう、あの時私は池の鯉やら校庭の桜の木や羅を矢鱈に愛でて回り、それに彼女を引き連れ、強引に手を繋いでいたのだ。鳥小屋の文鳥などには彼女の名前を覚えさせようと苦闘していたが、彼女に笑われてしまい止めたこともあった。彼女はまだ無邪気であって、そうした浪漫を理解していなかったから単純に笑っただけなのだが、私には随分冷やかに聞こえてしまい醒めてしまったのだ。
 彼女は一輪車に乗って見せてくれたことがあった。上手にすいすい漕いで、ぐるぐる回って、降りれば僕を上目遣いに見つめる。私が笑顔になると、彼女もにこりと笑った。彼女がピアノ教室のために帰った後、私は一輪車に乗って彼女の残した轍を辿ろうとした。ところが急な曲線で平衡を崩し、倒れて膝を擦り剥いた。赤い血が滲み出るのをみつめる私。日が傾き、校庭には私一人しかいない。影が長く伸びた。
 木の役には基本的に練習が無い。当然である。指導があるといえば、どの場面でどこに登場するかというト書きで済む程度であったが、それでも周りの稽古に付き合わされていた。木が必要な場面ではただ舞台後方に木の張りぼてを抱え、顔だけ出して突っ立っている。成程、これは本当に木のようだと思った。しかし、木というのは木であると意識したり、突っ立っていると思ったりしないだろう。動くという基本的な能力があってこそ、ただ棒立ちするという退屈が生まれてくるのである。そしてそう、これは酷く退屈な役であり、暫くじっとしていると身体がむずむずと動きだし、腕や脚に思いっきり力を込めて暴れ回りたい気分になった。
 真っ暗な体育館の中、スポットライトの当たる舞台の上で台詞を言う子どもたち、ただ棒立ちする私、観客のない劇、ただ教師が目を光らせている。出番ではないため自由を与えられ、闇に紛れて広い体育館を走り回り戯れる子どもたちを見た私はそこに不吉さを感じた。それは、彼らの走っている目の前には崖が控えている、とかそういう不吉さではない。ただ、私は死んだ動物の眼を見た気分になったのだ。一人の男に後方から手を伸ばす男たち、笑い声と足音を巨大な虚空に響かせていて、その残響に目を光らせる者がいる。僅かな潤いさえも乾き、ただ乾燥し、鈍く光る彼らの姿。
 ふと隣を見れば彼女が身悶えしている。彼女もまた姿勢の維持に辟易とし、いい加減身体を動かしたくてたまらないのだろう、息遣いも少し荒く、眼は反って不安げで、身体の一部を忙しく動かしているのは、尿意を催しているようにも思えるくらいだ。小声で臆することなく訊いてみた。
「トイレへ行きたいのかい?」
「ううん……」
 顔を恥ずかしそうに紅く染めた彼女は、ますます身体ももじもじとさせ、視線を伏せた。彼女は明らかに素直に言おうとしなかった、それは多分私に惚れているからだと思った。しかし、私に惚れているからこそ、その先に待ち受けるであろう醜態を晒すわけにはいかなかったようで、場面が転換し私たちが控える頃になって漸く白状した。
「やっぱりね、トイレ行きたい……」
「そう」
 私は子どもなりに気を遣い、先生に言い辛そうにしていた彼女の代わりに、私がトイレへ行きたいが、彼女についてきてもらうということにした。固より生徒を馬鹿にする馬鹿教師だから私がそう言っても、軽侮の念があけすけな笑みを浮かべて、「一人でトイレもいけないのか」と言って許可した。そして私は彼女の手首を掴み体育館から抜け出ると黙って廊下をまっすぐ進み、階段手前の突き当たりにある女子トイレの眼の前に来たところで止まり、手を離して「待ってるよ」とだけ言った。彼女は黙って頷いて中へはいって行った。バタンと個室の扉を閉める音が意外なほど大きく鳴った。不図脇にある階段を見上げると窓の外は真っ白で明るくて目が眩んだ。すっと視線を反対の体育館の方へ向けると残像が赤や緑の不明瞭な影となって現れた。向こうはずっと暗い、ここも暗い、ただ外の世界はとても明るい、昼間だというのにこの中は杳として晦冥としている。


 随分長く感じた彼女の不在も、再び鳴った意外なほどに大きな音によって気付きがあり、手を洗うために蛇口を捻り、水が流れ、手を差し出したために無作為な流れに煩わしさを感じたために、それは錯覚であって実際はごく短い時間だったことを悟った。戻るとき私は彼女に訊いた。
「君の名前は何と言った?」
 私は自分が思う以上に剣呑な表情を浮かべていただろう。彼女の顔も引き攣っていた。
「え?」
 咄嗟に出た言葉はそれだけである。私は再度同じことを訊いた。彼女は今度は逆に微笑みながら自分の愛らしい名前を答えた。決して珍しくのない苗字と名前の組み合わせなのにもかかわらず彼女にしかない名前なのは一体なぜだろうか。私がまだ幼く、世界が極小だからだろうか。彼女の名前は彼女と結びついているからだろう。彼女の嫋やかな肉体と、素朴で端正な顔と、翡翠の玉眼と、瞳の奥の幽かな光の揺らめきと。彼女の一切が、その名前に結びつき、その名前は彼女の一切をもって浮かび上がる城となる。そう言えば、天空に浮かぶ都市であるラピュタにはとんだ浮世離れした生き物が住んでいた。確かに、人は名前の上では世間とは乖離している。猿でも書けると思わせるような、馬鹿げた人生が、名前をもつと、両手を広げて闊歩する。
 無論彼女だけが馬鹿げているとは言わない。誰の人生だって馬鹿げているのだ。僕も、今朝廊下ですれ違った――公務員として中産階級に属する、家庭と過不足ない財産を持ち、それなりに生徒からの信頼もある教師である――あの趣味的な男の人生も、「悦ばしき地蔵尊――宴も酣――」なんて演目を予定している劇団を仕切っているあの男の人生も、ここの公園のベンチで寝泊まりしているあの男の人生も、ありとあらゆる人生がさいころを振った結果だ。運良く風向きがあっていなければ碌な人生ではないだろう、しかしながら風向きが変わるまで待っているだけで碌な人生になる、あるいは碌な人生でも風向きが変わったらどうにもできない。ヘミングウェイの小説にもそう書いてあった。
 彼女は私が歩き始めるのを見て歩き始めた。ところがもう次の瞬間には私を追い越している。そして振り返って時折私に話しかけるのだ。気温が下がったこと、空気が乾燥していること、晴れが多いこと、葉が枯れ落ちたことを、楽しげに話すのだ。彼女は特に話すことがなかったのだろう。私にも特になかったから相槌をうってはいたが、一言も話さなかった。
 落ち葉が風に巻かれて軽やかに道の上を飛んでいく。そして落ち葉は再び落ちる。固い地面は冷たいから少し慎重に着地する。公園では余り人は遊んでいない。寝ている人も少ない。夏場よりも大分少ない。まるで渡り鳥みたいだ。また春になる頃にここへ来るのだろうか。いや、そんな習性は彼らにはない。鳥だって巣を持つが、彼らには巣はない。彼らの方が鳥なんかよりもずっと自由なのだ。
浮浪者は鳥ではない。羽ばたかないし俯瞰しない、それに風を操れない。彼らの人生は風向きが悪かったのだ。ただそれだけだ。木々は風に吹かれて唸るし、草々は囁く。しかし彼らは吹き飛ばされている根なし草だ。冬は北風が厳しい、だからきっと根なし草を暖かい南国へ飛ばしてくれるだろう


散文(批評随筆小説等) 木は孤独だろうか? Copyright すみたに 2013-01-20 17:35:49
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