海一粒の砂粒
すみたに



 海中を漂う砂粒が、潮流に弄ばれながらも、時には魚の口から鰓へ抜けながらも徐々に沈んでいく。天に在る日輪がその姿を鏡に映している、その鏡である美しい海面から離れて黒い海へと沈んでいく。それは途方もないほどの時間をかけて、行き着く場所を訪ね歩いている。深海には何が待ち受けるのだろうか、冥府だろうか絶望だろうか。違う。もっと善きものがあるに違いない。ほうら、光のない世界なんて嘘じゃないか。奥底には星が瞬いている。深海の女王が優しく腕に抱いているではないか。不安なく恐怖なく、ただ身を重力に委ねて沈んでいけばいい。
 海を眺める少年がいる。少年は浜辺で一人横になり、思い立ったかのように駆けだした。汗で滲んだシャツや髪には砂がべっとりくっついている。じゃばじゃばと大袈裟な身振りで海へ飛び込んだ。崖に一人立って、巌をなぞる奇怪な視線とは異なり、滑らかな小麦の肌が海に融けるのを綺麗に見届ける視線があるのに彼は気がつかない。その女性は衣服を身につけていない――つまり全裸だった――が、恥じらいもなく、白い肌に一杯陽射しを受けていた。彼女は既に若くない。彼の母親ではないだろう。多分誰も彼女を知らないし、誰も彼を知らない。知る手段も知らせる手段も放棄してしまったのだ。少年も女性も、既に純な姿になろうとしている、肌が焼けて、色づくころに、むき出しになる赤い肉体こそが愈々世界に対峙したか弱き存在の創傷なのだ。
 海水がただの塩水に変わることなんて砂粒には関係のないこと。名前から解放されて砂粒は純で完成した砂粒となった。海水も塩水も名前から解放されて漸くありのままになれた。ただ茫洋とする存在となった「それ」はただうねる、流れる、鎮まる。美しさも醜さも恐ろしさも剥奪されながらも、確固としてそこに存在し、多くの不純なものを抱えている。生命としては純粋なのに、名前のせいで不純になってしまっている哀れな生き物たち。
「初めから海に美しさがあるなんて幻想だったのね」女性はぽつりと呟いた。
もはや「それ」となった存在は不可視になってしまった。恰も蜘蛛の巣を構成する一本の糸になったかのように。蜘蛛の巣が持つ偶然性と精緻な設計は語りを止めないのだろう。どこを切り取っても違う形が見え、そこから何かを読み取ってしまう。しかし「それ」だけは沈黙を貫いてほしいと願うのはいけないことだろうか? 
「そこで全てが終わってしまえばいいのに」再び女性は呟き、その吐息を風が掻き消した。
砂粒はとうとう海底に着いたようだ。女王の微笑みと星の輝きに歓迎されて、それから砂地に紛れて消えた。砂粒は純であったのに、再び純でなくなってしまった。


自由詩 海一粒の砂粒 Copyright すみたに 2013-01-20 17:30:31
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