幽界レポート
ゆったいり
初めに、これは主観的要素や不確定かつ高度に抽象的なことを非常に多く含み、
また誤解を生む表現や私の筆が至らないところも多分に存在し、
これを真実だと思い込むことは危険なので、あくまで参考程度にとどめていただきたい
この世界の裏にはもう一つの世界がある
それは心の世界
友情も憎しみも
すべての心の世界
心は人だけではなく、全てのものが持っている
人だけが特別強いわけではなく
それは質の違いで、
人は猿よりも人に近いと言っているようなものである
心の世界ではこちらの心が溶け合い
交じり合い、混沌としている
それは川のように流れ、渦巻いており、
こちらの世界に影響を及ぼす
その大きな流れをを人は、
運命や神の意志と呼んだりもする
運命が人の意志によって変えられるのは、
元々が同じものだからである
心の大きな流れ、
そこに強い思念が積もれば
記憶や思想の形を借りて
ぼんやりとした意志を持つ
人はそれを神や悪霊と呼んだりする
それは溜まった思念が多ければ多いほど
こちらに強い影響を及ぼす
人に個性があるのと同じように
その影響は様々で
人は復讐の心が強いから
それだけをすると考えがちだが、
良い感情があれば悪い感情があるのと同じように
良いことも悪いこともする
様々なのは影響だけではなく形態もだ
一番有名なのは人がこの世を離れて幽界に行くとき
現世への執着(これも様々だが)が強く、
この世にとどまった、幽霊と呼ばれるものだ
これは生前の思念をほとんど反映するので
はっきりとした思考能力を持っていることが多い
大切なのは完全に反映するのではないと言う点で、
精神力や執着が弱ければ、ほとんどこちらに影響はない
しかし執着が強く、精神力が弱い場合は執着に飲み込まれ、
魑魅魍魎となることが多い
厳密に幽霊と呼べるものは精神力も執着も強かった場合で、
これははなただ稀である
ただしこれは負の執着であった場合で
現世への正の執着、恩返しをしたいなどの場合は
正の思念の強い霊、つまり聖霊(神と呼ばれる場合もあるがここでは聖霊とする)
に思いを果たしてもらったり、使役され、正しいことに力を使う場合がほとんどだ
精神力も執着も強かった場合、
正の場合なら聖霊となり、正の影響をこちらに与え、
負の場合は悪霊や悪魔、鬼などと呼ばれるものになり、
負の影響をこちらへ及ぼす
聖霊も悪霊も人間としての思念が強いのが特徴で、
しばしば人間の思念の中に入り込み、行動を操ったり思考を導いたりする
いわゆる霊感を持つ人の目に映る時も人間の姿で、
それも一番本人の思い入れが強い姿で映る
ただ、幽霊になるのは人間だけではない
人間以外の動物を含めたものを、ここでの幽霊とする
基本的には人間と同じだが、人間よりかは思念の割合が少ないので、
あたりかまわず影響を及ぼすことが多い
もう一つは人間でない場合、植物や岩などの場合で、
これは思念ではなく感情によってのみ影響を及ぼすものだ
なぜなら脳を持たない者なので、もともと思念と言うものが存在しないからだ
それでも人間などの思念が強い生物の心が流入してくれば、思念を持つこともある
その場合、幽霊に近い働きをする
思念を持たないので、自分では感情を生み出すことはない
なので、気の流れと呼ばれるものや、幽霊の動きによって
宿るような形で感情を持つことになる
ただしこの限りではなく
植物、特に一部の樹木は
長く生息すれば思念を持つことが非常に多く、
一部の岩はその岩となるときに特定の感情を含む
いわゆるパワーストーンと呼ばれるもので、
これは人間が新たに感情を込めることも容易である
最後に、私が見てきたのはあくまで私から見たことだけなので、
一般性かつ正確性は信用に足るものではない
さらに私が見てきたのはあくまで心の世界についてのみなので、
この文では足りないところも多分にある
特に霊能力や人間特有の思念などについてはまったく不足しているので、
別の文献を参照されたし
※表現の説明
心、思念、感情について
心は大きく思念と感情の二つに分けられ、
思念は行動を決定するものだが、
本能によってとは違う範囲にのみである
おなかがすいたからご飯を食べるというのは本能だが、
食事の時間になったから食べるというのや、
おなかがすいたけど絵をかくなどと言うのは思念である
感情は言わずもがなだが、もう一度言うようにこれは
植物も岩も持っている
正、負と言う表現について
これは道教などの中国思想における陰陽の定義域をずらしたようなものであり、
他の物や者に善いことをしようとする思念を正の思念と呼び、(仏性と呼ばれることも)
それなどによってもたらされる喜びなどの感情を正の感情と呼ぶ
反対に害しようとしたり自分が利を得ようとする思念を負の思念と呼ぶ
しかし負の感情は必ずしも負の思念によってのみもたらされるものではなく、
しばしば正の思念によってももたらされる
それが正であっても負であっても、
どのような感情を抱くかはその人の精神性、人格によるところも大きい
ここで重要なのは正、負と言うのは、はっきり二つに分けられるものではなく
善悪のように揺れ動くあいまいなものである
たとえば寒そうな地蔵様に笠を被せるのは正の思念によるものだが、
それによって米俵が届くのを期待するのは負の思念と呼べる
このように自分を益する思念と他を益する思念が
ないまぜの行動はこの世界では珍しくない