あずきの恋人 (連載⑨)
たま
わたしは二階の部屋にあがって、鈴木さんのガラス玉を手にとって、しばらくながめていた。どこかでみかけた夜店の、輪投げの景品みたいな、ただのガラス玉だった。
だいじょうぶかなぁ、なんだかニセモノみたいだけど……。
その日は、おとうさんの帰りがおそい日だったから、六時すぎには夕飯を食べることになった。わたしはいつも夕飯のあと、テレビをみたり、ゲームをしたり、たまに、おばあちゃんの足をもんであげたりして、十時すぎには寝ることにしている。
鈴木さんとの約束は十時だったから、今夜はすこし早めに、じぶんの部屋にもどってガラス玉をにぎりしめて、鈴木さんの魔法がとどくのを待たなければいけない。
夕飯のまえにお風呂に入って、おばあちゃんと、おかあさんと三人で夕飯をたべて、リビングでテレビをみていた。おとうさんはまだ、帰ってこない。
「ねぇ、おかあさん……、わたし、きょうはもうねむいから二階にあがってもいい?」
「あら? あずきちゃん、もう、寝ちゃうの? こんな時間に寝ちゃったら、年寄りみたいだよ。ほっほっほ……。」
おばあちゃんが笑った。
「あずき、どうしたの?」
「ううん、べつに……。」
あかあさんはわたしのおでこに手をあてた。
「熱はないわね……。じゃあ、あずき、エアコンはあまりきつくしないで、タオルケットはちゃんとかぶって寝なきゃだめよ。」
「うん。」
まだ、九時すぎだった。あわてて二階にあがったら、おかあさんにあやしまれるかもしれないと思って、わたしはパジャマに着替えて、ゆっくり歯みがきしてから、おばあちゃんにおやすみって言ったの。
二階にあがってベッドのうえで足をのばして、スケッチ・ブックをひらいた。イチローのうしろ姿を描いたページだった。イチローのひだり肩のよこには、鈴木さんにもらった、淡い灰色の付箋が貼ってある。
/ぼくは外猫のイチロー。ひみつがいっぱい。
わたしが書いて貼っておいたの。
ねぇ、イチローはおかあさんが好きだったの? わたし、ちっとも知らなかったけど、さみしかったの? だれかに甘えたかったの? おかあさんもね、イチローが好きなんだよ、きっとね……。おとうさんにはナイショだけど……。
わたしもいつか、恋をするのかなぁ。三十歳はだめだけど、年上がいいな……。みっつぐらい……。
うふっ。
玄関のチャイムが鳴ったような気がした。
あ……、おとうさんが帰ってきたみたい。
わたしは部屋の電気をちいさくして、タオルケットをかぶって、ベッドにもぐりこんだ。階段をあがってくる足音がする。おとうさんだ。部屋のドアがすこしひらいて、おとうさんの気配がして、ドアはすぐにしまった。
やれやれ……、さいごの関門は突破したみたい。
あっ、そうだ! 窓をあけなくっちゃあ……。
窓を十五センチほどあけて、部屋の電気はそのままにして、わたしはベッドに腰かけた。
九時五十分……。うす暗い部屋に、ちいさな胸の鼓動が、時を刻む時計のおとのように流れて、わたしはその胸に、にぎりしめたガラス玉をそおっとあてた。
十時になった。
……。
あれっ? ……なにも変わらない。……もう、鈴木さんったら、なにしてるの?
わたしはちいさな部屋の灯りをみあげていた。
なんだか、あったかい……、えっ、ガラス玉?
ふっと、気づいたら、にぎりしめたガラス玉がオレンジ色に染まって、ぼんやり、かがやいていた。わたしは手のひらをすこしひらいて、ガラス玉に顔をちかづける。
あ……、なにか、動いてる?
ガラス玉のなかにもうひとつ、丸いものがあって、ゆっくりまわっていた。
えっ! 木星?
それはたしかに木星にみえた。オレンジ色の横縞がいくつもならんで、鈴木さんが描いた、あの木星の絵とおなじだった。
うっ、まぶしい!
一瞬のできごとだった。オレンジ色のガラス玉がおおきな火の玉になって、わたしのからだをすっぽりつつみこむと、風船みたいに宙に浮いた。そうして、目のまえを、あかるいオレンジ色に染まった部屋が、ぐるぐる、まわって、わたしは目をまわしそうだった……。
ほんのすこし、わたしは気をうしなったのだと思う。気がつくとベッドからすべり落ちて、床のうえに、はいつくばっていた。
ベッドの下に転がった、ガラス玉がみえる。
あれ……、どうして?
わたしは手をのばしてガラス玉をとろうとしたら、しろい猫の手がみえた。
……えっ、うそ!
でも、うそじゃなかった。わたしは猫になっていたの。
しばらくは声もでなかった。
なにもかもが目のうえにあった。天井のちいさな灯りがあんなにたかくて、まぶしいほどにあかるい。ベッドのうえにはパジャマだけがあって、まるで、わたしが寝ているみたいだった。
あ、いけない、いかなくっちゃあ!
わたしは窓の下に立って、手をのばしたけれど窓枠にはとどかなかった。
あ、そっか、ジャンプしなきゃあ……。よし、……せえーのぉ、
えいっ!
きゃっ、あぶない!
窓枠の敷居があまりにもせまかったので、わたしはそのまま窓のそとに落ちてしまいそうだった。おしりがほとんど落ちかかった状態で、必死に窓枠にしがみついて下をみおろしたら、一階のリビングのまえの庭がはるか下にみえた。
うっ、あんなとこまで落ちたら、わたし死んじゃうわ……。え……、なにこれ?
あ……、わたしのしっぽか……。
もう、鈴木さんったら、こんなとこで魔法かけなくてもいいのに! って、思ったけれどもう、どうしようもなかった。
窓の下には玄関までつづくリビングのせまい庇があった。わたしは覚悟をきめて、あそこに飛びおりるしかないと思った。よし……、目をつむって両手をはなしたの。
トン……。
あれ?
わたしは軽々と庇に着地していた。
わっ、すごい……、やっぱし猫なんだ。
せまい庇のうえを玄関に向かってゆっくりあるく。リビングの窓があいていて、おとうさんと、おかあさんの話し声が聞こえた。
え……、おとうさんあしたから出張なの? あ……、おかあさん、なんだか機嫌がいいわね。もう、のん気なひとなんだから……。
庇はすぐに途切れて玄関がみえたけれど、地面まではまだ、数メートルもあった。
あ、おかあさんの車だ……。
玄関のよこにガレージがあって、おかあさんの軽自動車がとめてあった。ちょっと、車の屋根がせまいけれど、飛びおりることにした。だいじょうぶ、猫なんだから。せえーのぉ、
えいっ!
うぎゃっ!
車の屋根のうえで思いっきりすべって、わたしはそのまま、アジサイの庭木のなかに仰向けに落ちてしまった。
うっ、おしりがいたーい……。
大失敗だったけれど、なんとか地面におりることができた。わたしの目のたかさは、地面から数センチ、なんだろうこの匂いは、いつか、おかあさんのいなかの畑で、じゃがいもを掘ったときの土の匂いに似ていた。ちょっと、かび臭い。
あ……、なにか踏んだみたい……、え、ナメクジ……?
やだぁー、もう!
わたしはいつもの通学路にでると、猫又木山団地をめざしてけんめいに走った。ほとんど、目のまえの地面だけしかみえなくて、おおきな空をみあげたら、あかるい星がいっぱいみえた。猫の世界って、公園のブランコに乗ってるみたいだと思った。ときどき、地面に吸いこまれるように、足がもつれて転びそうになったけれど、そんなときは、しっぽをまっすぐのばしてバランスをとれば、転ばないことがわかった。
あ……、まえからなにか来る。あれは車のライト?
わっ、まぶしい!
ぐおぉー……って、すごいおとがしてわたしのからだが、ふっとびそうだった。
車のうしろからはバイクも走ってきて、しろい排気ガスをあびたら、目や、鼻のおくがつんって、痛くなって涙がでそうだった。猫も犬も、たいへんなんだ。
ようやく、団地の入り口にちかい山茶花の垣根がみえてきた。よし、もうすこしだと思ったとき、垣根の下から、まっ黒なかたまりが飛びだしてきて、わたしのまえをふさいだ。
え……、猫?
ちょっとこわい顔をした、おおきな黒猫だった。
「おい、おまえ、あまりみかけねぇ面だなぁ。どこのガキだい?」
ガキ……って、えっ、猫がしゃべった!
「なぁ、おい、ちょっと、おれとつき合えよ。」
「え、わ、わたし……? あ、だめです。わたしいそがしいの。」
わたしもしゃべったの!
「へー、いそがしいって、これから彼氏とデートかよぉ? わるいけど、おれの言うこと聞かなかったら、彼氏には会えないぜ。」
「そ、そんなの、わたしいやです! そこ、どけてください。」
「できねぇなぁ。……な、ちょっとだけでいいからさ、つき合ってくれよ。」
うー、やだ! やだ! もー、こっちこないで!
黒猫のおおきなまるい顔と、にやにや笑ったいやらしい金色の目が、すぐ目のまえにあったけれど、わたしはこわくて動けなかった。
「やめなさい。」
え……? 黒猫のうしろにだれかいた。
黒猫がすごくこわい顔をしてうしろをふり向くと、オレンジ色のすこしやせたトラ猫が立っていた。
「なんだよ。てめぇは……。」
「その子とはあそべないんだよ。あきらめて帰りなさい。」
「へっ、ババァのくせして、おれにケンカ売る気かよぉ、このやろー!」
あっ、トラ猫がやられる! やだぁー。
黒猫のおおきな背中が、ぽーんって、ジャンプしたその一瞬、オレンジ色のちいさな輪がかがやいて、黒猫がすとんって、地面に落ちて消えた。
え……?
トラ猫のまえでなにかが、もぞもぞ動いていた。
あ、ねずみ……?
黒っぽいねずみは立ちあがると、きょとんとした顔でトラ猫をみあげてから、一目散に垣根の向こうへ逃げていったの。
「あずきちゃん……。」
「えっ……、鈴木さん!」
まさか、鈴木さんまで、猫になっちゃうなんて……。
もう、たまさんったら。
「あぶなかったね。さあ、もう、だいじょうぶだよ。はやく行きなさい。イチローが待ってるよ。」
「う、うん……、ありがとう。じゃあ……。」
鈴木さんはそのまま動かないで、わたしを見送ってくれたけれど、わたしはなんだか、さみしくて、なんどもふり返っては、団地のなかへ駆けていった。
つづく