板書
月形半分子
私の可愛い高校教師の部屋を訪れると、彼はキャンバスに青い油絵の具で自分の姿を描いて、暁の海辺を歩かせているところだった。暁の空から海辺へと、寒々しいターコイズブルーをひろげては、幾つもの電線を烏のように黒く塗り、ぶらんと宙に垂らして。空には爪のような月がぼんやりと見えている。背景の露に濡れた町は、青に灰色を濃くしていったせいで、彼の影と変わらぬ鈍い色になって眠っている。私は、下手な絵を褒めも出来ずに「全部を一色にしてしまうと、町が、家と道と車と看板と白線でしかないことがよくわかるから不思議だね」と言うと、彼はお気に入りのいつもの曲をかけたなかで、ふいに「結婚することになった」と私に告げた。彼は絵のなかで暁の町を背にしていた。大きく見開いた目に赤い筋を浮かせ、真っ正面を凝視したまま、ヒタヒタと波に揺れる桟橋に立ちつくして動かない。桟橋には漁船や小船が連なり、その隙間からターコイズブルーよりもいっそう肌寒い青白い霧が立ち上り、彼の唯一教師らしいキャラメル色の靴を覆っている。桟橋から先は見えない。霧で見えないのだ。筆を置いた彼が、人差し指を親指で2、3度擦る。それは、教室で教師がいつも板書し終えた時に、生徒にして見せる合図だった。