途切れたものはいつもかならず手の届かない場所にしか居ない
ホロウ・シカエルボク
テーブルの上には要領を得ない文章が延々と書き殴られた紙片がある、綴じられたものから無理矢理に引きはがしたように形はみだらで、一度握りつぶしたみたいにくしゃっとなっている、五階の、家具のあまりない、安ホテルの一室みたいな部屋の小さなテーブルの上に、飲みかけた水がそのままに残されたコップと一緒に置かれているそんな紙片は、もうどうしようもなくなった人間が残した遺書のように見える、窓からは暮れかけた日の光が差し込んでいる、薄い雲がヨーグルトの上に溜まる水みたいに張った空から差し込むその光は、死にかけた老人が衰えた目で見る最後の光に似ている、部屋の窓は西に向かって開いているのだ、窓はわずかに左側が空いていて、そこから下界の喧騒がかすかに聞こえてくる、本格的に道路が騒がしくなるには少し早いのだ、音とともに入り込む風は、出来の悪い音符のように埃っぽい、ポータブルラジオの電池は切れているらしい、どこかの引き出しに別の電池が入っていないだろうか、それはきちんとあらゆるものに通電出来る電池だろうか、わたしには電池を捨てるという習慣が無い、わたしの部屋のあらゆる引き出しに、もうどんなものも動かすことが出来なくなったさまざまな形状の電池が埋もれている、恐竜の化石のように、もっとも、もう一度発見されたところで化石のような興味などそこにはありはしないけれど、わたしはゆっくりとたったひとつだけのローチェストに近寄り、いちばん上の引き出しをゆっくりと開けてみる、そこには何も入っていない、きっとどこかの段階で処分されたのだろう、もしかしたら初めから何も入っていなかったのかもしれない、そう言われてもわたしは驚かない、二段目の引き出しには洋服かなにかのタグがひとつだけ入っていた、シャツの襟についていたもののようだった、わたしは彼女が最後に着ていたシャツのことを思い出した、光沢のついた白いシャツ、秋の終わりの、フェンシングの剣の一突きみたいな太陽を鮮やかに反射していた白いシャツ、このタグはきっとそのシャツの襟についていたのだろうとわたしは思った、もちろんそんなことになんの根拠もなかったけれど、だからこそゆるぎないという事柄がときにはあるものだ、三段目の引き出しにはノートが入っていた、ぱらぱらとめくってみたけれどどこにもなにも描かれた様子はなかった、それはページをめくる前から判っていた、おそらくどこかに一枚、破られたページがあるのだろう、ついさっき入って来た玄関のところでコトリと小さな音がした、振り返るとそこには短い茶色の毛の猫がいた、あらゆる悲しみを一通り終わらせてきたみたいな顔をしていた、ひらひらと手を動かして呼んでみたけれどうつむきながらまたどこかへ出て行ってしまった、たぶんわたしじゃない誰かならよかったのだ、だけどそれはわたしにはどうしようもないことだった、四段目の引き出しにはなにも入っていなかった、あのラジオを鳴らすことは出来ない、あのラジオはきっとまだ、なにかを受信して大声で叫ぶことが出来るだろう、いろいろな話をして、人々を楽しませることが出来るだろう、だけどこの部屋にはもう電池がなかった、そしてあのラジオはたぶん、すっかり忘れられていつか自分がラジオだったことを忘れてしまうだろう、わたしは立ち上がってシャツの裾を直した、少し寒くなりはじめていた、椅子にかけていたコートを着た、それを着てしまうともうなんだかこの部屋にいる意味がすっかりなくなってしまったような気がした、テーブルの上の紙片には興味が持てなかった、コップを洗っておいたほうがいいだろうか、という考えが頭をかすめた、だけど、いったい何のために?そこに水が入っていようといまいと、洗われてきちんと伏せられていようと、もうそんなことにはなんの意味もないのだ、わたしはコートの前をきちんと合わせて、玄関のドアを閉じて預かってきた鍵でそれが望まれない限り開かないようにした、アパートの入口から往来へ出ると歩道の端にさっきの猫が居た、答えの要らない方程式を共有するようにわたしたちはひととき見つめあった、車道では嵐のように車が行きかっていた、こんどそっぽを向いたのはわたしの方だった、こんど、とわたしは思った、わたしの部屋の引き出しに埋もれているありったけの電池を持ってもう一度ここに来てみようか、と、あの部屋の鍵を開けて、あのラジオの蓋を外して、片っ端からその電池を詰め込んでみようかと、それでもし、ほんの一瞬でも、あのラジオが叫ぶことが出来たら、出来たら……