あずきの恋人 (連載③)
たま
きょうは月よう日。絵本教室の日だった。
夏休みも、もうすぐおわる。あんなにうるさく鳴いていた蝉も、けさはとても静かだった。おかあさんは朝からいそがしく洗濯していたから、わたしも手伝うことにした。
「あら、あずき。手伝ってくれるの?」
「うん。」
「まぁ、どうしたのかしら……、せっかくのお天気なのに、雨がふるかもしれないわよ。」
「だいじょうぶよ。わたし、日ごろのおこないがいいから。」
「あ、わかったわ。きょうは絵本教室だからね。」
うん、まぁね……。やっぱし、ばれたかな。
「そうそう、教室は何時からだった?」
「十二時半からって書いてあったよ。」
「じゃあ、お昼はちょっと、早めにたべなくっちゃね。あずき、おばあちゃんのお部屋みてきてちょうだい。おふとん干したいから……。」
「うん。」
なかなか、いそがしくなってしまった。
「あら、あずきどうしたの?」
あ、おばあちゃんもか……、わたしってふだん、なにもしていないのかなぁ。
「おかあさんがおふとん干したいって。」
「まぁ、そうなの? あずきがいると助かるわねぇ。」
……、ま、いっか……。
絵本教室の準備はしっかりできていたから、わたしはちっともあせらなかったけれど、問題はおかあさんだった。だいたい、おかあさんの頭のなかの時計って、電波時計より十五分はおくれているとわたしは思っている。だから、学校がはじまると朝はたいへんなの。
おばあちゃんはNHKのお昼のニュースをみていた。
「ねぇ、おかあさーん、もう、いかなくっちゃあ!」
「だいじょうぶよぉー。もうすぐだからぁ。」
わたしは玄関でおかあさんを待っていた。おかあさんはまだ二階からおりてこない。
ばた・ばた・ばた……、って、
スリッパの音がしてやっとおりてきたみたい。
「じゃあ、おばあちゃん、あずきとでかけるからなにかあったら、わたしのケイタイに電話してちょうだいね。」
「はい、はい。承知してますよ。行ってらっしゃい。」
十二時十分……。やっと、玄関をでることができた。朝から、おかあさんの手伝いをして正解だったかもしれない。
猫又木山文化会館は意外とちかくにあった。いつも、学校の帰りに通りぬける猫又木山団地の北側にあって、おおきな木立ちのかげになっていたから、気づかなかったのだと思う。おかあさんの車でも十分ぐらいで着いた。
文化会館の駐車場はひっそりしていた。
「あら、車が一台もとまってないわよ。おかしいわね。」
「ほんとだ……。」
建物のいちばんちかくに車をとめて、文化会館の玄関のドアをあけておかあさんとなかにはいった。三階建てだったけれど、それほどおおきくない建物だった。一階にはひろい廊下と、事務所と、図書室と、トイレとかがあるみたいだったけれど、どこにも灯りはついていなかった。
「ねぇ、あずき。だれもいないわよ。」
「う……ん、あ、お昼休憩かもしれないわよ。きっと……。」
たしかに一階にはだれもいなかった。
「あ、おかあさん、あれ!」
階段の下にちいさな立て看板があって、そこには『手づくり絵本教室は三階です』と、青い字で書かれてあった。
「あら、三階なの。エレベーターあるかしら……。」
おかあさんはそう言って、廊下のおくのエレベーターのボタンを押したけれど、エレベーターは動かなかったの。
「節電中なのよ、きっと。」
わたしはそう言って、おかあさんの手をとって階段を上った。階段のおどり場には青い矢印があって、三階までつづいているみたい。三階の廊下にでると、また、矢印があって、
『手づくり絵本教室はこのおくです。』って、書いてあった。
階段はとても暑かったからおかあさんはもう、汗をかいて、ふー、ふー、言ってる。せまい廊下の窓も、いくつかある部屋のドアも、すべて閉ざされていて物音ひとつ聞こえなかったし、どの部屋にもひとのいる気配はなかった。第二会議室は廊下のいちばんおくにあって、ちいさな木のドアのよこの壁に『手づくり絵本教室』と書いた紙が貼ってあった。
あ、チラシの紙とおなじみたい。やっと着いたわ。
トントン……。
おかあさんがノックした。
「はい。どうぞ……。」
ドアの向こうで男のひとの元気な声がして、おかあさんが静かにドアをあけた。
「やぁ、いらっっしゃい。暑かったでしょう。さぁ、こちらの席にどうぞ。」
ちょっと、せまい部屋だったけれどクーラーがよく効いていてとても涼しかった。部屋の中央には会議用の机が四つ、田の字に並んで、知らないおばさんがひとり、机のうえに新聞紙をひろげて、そのうえに画用紙をおいて絵を描いていた。
おかあさんとわたしはそのおばさんのよこに並んですわった。わたしがおばさんのとなりだった。
「井上あずきさんと、おかあさんですね。」
「はい、井上です。よろしくおねがいします。」
このひとが先生なんだろうか?
あれ……? なんだか、イチローに似てる。ニューヨーク・ヤンキースのイチロー選手じゃなくて、どちらかというと、猫のイチローに……。
「似てるわね……。」
おかあさんも気づいたみたい……、わたしの耳元でこっそりつぶやいた。
うん……、わたしはちいさくうなずいた。
「えー、それでは、生徒さんがそろったみたいなので、手づくり絵本教室をはじめたいと思います。」
えっ、このおばさんも生徒なの? うそみたい……。
「えー、まず、ぼくの自己紹介ですが、名前は、とやま……と、言います。本日の講師をさせていただきます。どうか、よろしくお願いします。」
やっぱし、このひとが先生みたい。
先生はそう言って、青いマーカーを持つとホワイトボードに、外山……と、書いた。
「えー、そとやまと書いて、とやまと読みます。それでですね、ぼくは中学生のころ、そとねこという、あだ名がついていました。えー、そとねこはこんな字を書きます。」
先生はホワイトボードに、外猫……、と書いた。
「外猫って言うのは、ノラ猫のことなんですが、じゃあ、鈴木さん、家のなかで飼ってる猫はなんて言いますか?」
「はい。うちねこです。」
となりのおばさんが答えた。鈴木さんか……、このひと。
「はい。そうですね。家猫と書いて、いえねこ、または、うちねこと言いますね。井上さんとこには猫がいますか?」
え……? わたしはおかあさんと顔を見合した。
「あ、はい。いますけど、外猫です。」
おかあさんが答えた。
「あ、そうなんですか。どんな猫ですか?」
「あの……、おとこの子なんですけど、ちょっと、やせていて、おんなの子みたいにおとなしい猫です……。ねぇ、あずき。」
う、うん……。
「名前はありますか?」
先生がわたしの顔をみて質問したから答えたの……。
「イチローです。」
「ぐふっ、ぐふっ、ぐふっ、ぐふっ、ぐふっ……。」
えっ……、なに? 鈴木さんがいきなりへんな声で笑いだした。
「あっはっはっはっ……、それじゃあ、まるで鈴木さんとこの家猫みたいですねぇ。」
先生も笑ってそう言うと、こんどはおかあさんまで笑いだしたの。
「うっふっふっふっ……。」
わたしはわけがわからなくて呆然としていたら先生が、
「あのね、あずきさん。イチロー選手の名前は鈴木一朗って、言うんですよ。」
……って。
へー、そうだったんだ。わたしはやっとなっとくできたけれど、ちっともおかしくなかった。絵本教室はいつ始まるのかしら、おとなの話しは前置きがながいからきらいだった。
「あ……、では、ぼちぼち始めたいと思います。」
あれっ? この先生……、するどいかも。
「えー、きょうはみなさんと絵本の描き方を学びたいと思うのですが、絵本の描き方と言っても、ひとそれぞれ、さまざまな作法があります。まず、物語を完成させてから、絵を描くひともいれば、絵を先に描いて、そのあとに物語を考えるひともいます。もちろん、絵と物語を同時に描くひともいますね。」
あ……、わたしは絵が先なんだ。
「えー、それから、これはいちばん大切なことなんですが、絵本の描き方に決まりはありません。つまり、自由に、のびのびと、思うままに描いてほしいのです。でも、ひとつだけ忘れないでほしいものがあります。それは、絵本を描く目的です。」
え……、もくてき……、なんだろう?
「絵本は描いて学ぶもの、そして、読んで学ぶものなのです。ですから、いま、描いている絵本は、なにを学ぶ絵本なのかということを、しっかり考えてほしいのです。」
う、やばい。そんなのわたしにはむり……。
「と、言ってもそんなに、やばい話しではありません。たとえば、この絵本はチーズケーキのつくり方を学ぶための絵本とか、算数の九九をおぼえるための絵本とか、ときとして、ひとと、猫の愛し方を学ぶ絵本であってもいいのです。」
やっぱし、やばいじゃん……。
「えー、では、あまり時間もありませんので、まず、みなさんの絵をみせてもらって、ぼくから質問しますから、正直に答えてください。あ、絵はまだ未完成でもかまいませんから、みなさんもわからないことは、遠慮せずにぼくに質問してください。すこしでも、みなさんの絵本が前に進むようにお手伝いしたいと思います。はい、よろしいですか?」
「はい。」
鈴木さんが小学生みたいにへんじした。
「あ、では、鈴木さんの絵からみせてもらいましょうか。あずきさんもいっしょにみててくださいね。」
おかあさんがわたしの背中を指でつついた。へんじをしなかったからだ。
「あ、はい……。」
つづく