月の嗤うさき ー第二稿 
……とある蛙

     序         

霧に遮られた淡い月明かりが滲んで夜空に消え入りそうな夜。
書斎の机の上に開かれた革張りのポオ全集の一巻、熱いコーヒーと揺らぐ葉巻の煙。その脇には黒猫が蹲(うずくま)る。
蜷局(とぐろ)を巻いた黒い毛玉は葉巻の煙の行方を目で追っている。
突然首をもたげた黒猫。その視線の先には窓が。
部屋の十分な明るさの中、黒猫の瞳は黒々として、

何かを警戒している。
窓の外に蠢く何か。

窓を開けると異臭を放つ茶褐色の毛玉のような大きな塊が
突然、部屋の中に飛び込んできた。
眼を凝らしてみると猿、かなり大きな猿。
猿は牙をむいて黒猫を恫喝しようと咆哮した。
黒猫は耳を頭の後ろにつけたまま脅えながら唸ってる。
彼の眼に猿は尋常なものとして映っていなかった。
さらに眼を凝らしてみると猿は異常に大きく類人猿と呼ぶにふさわしい体躯だ。
彼は突然私を見つめこう呟いた
イザナギ
っと

空には青い月
突然地上は濃い霧に覆われた
イザナギは語りかける

不思議な創世記を
創世記の物語を
声は聞こえず
私の頭の中で彼の落ち着いた意識が聞こえる。不思議な創世記の物語が。霧の中にぼんやり浮かぶ森の中

    1

霧に包まれた類人猿の咆哮は
全ての音を包み込んだ
異様な振動を部屋の中に持ち込む
全ての言葉は何の目的で語られているのか

不明だ

類人猿は苛立ちを覚えながら、
剥き出しにした牙をこちらに向けて
そして、脳髄に直接語りかける

ここまで来たのだ
イザナミ

ボツボツ類人猿は言いたいことを語り始めた。
俺は恥かきっ子だ。

類人猿の声が遠く谺する。

    2

突然暗転したさきは森の中
類人猿の恥かきっ子を眺めている。
何処なのか何時なのかも分からない
何故、恥かきっ子を眺めているのか
どこから眺めているのかも分からない。

森の中で両腕をついて屈んでいる恥かきっ子は
突然空腹を覚え歩き出した。

静々と歩み始めた恥掻きっ子は、
獣道を中腰で歩き続けて、
水のある川岸まで
キョロキョロしながらたどり着いた。

川岸の潅木は少し腐りかけていたが、
得意の木登りで川岸に張り出した枝にぶら下がり、
裂いた蔓の皮の先に死にかけの虫を括りつけ、
淀んで腐った臭いのする水面に垂れ下げて
狙う 
粘り気のある波紋は
奇妙な黄色い発酵ガスを撒き散らしながら
枝の上にぶら下がった恥掻きっ子を直撃した。

発酵臭に目眩を感じながら恥掻きっ子は、
魚影は褐色の水面の下に見えないのだが、
赤い顔をしてじっと我慢し、そして、待った。

待った待った待った待った
まったまったまったまった

待っている間に彼は眼が悪くなった。
鼻が利かなくなった。
木登りが疎ましくなった。
そして、生きている意味を考えるようになった。

一匹だけ掛かった魚は、
赤い色の魚饐(す)えた臭いを発していた。
それを貪り食らっているうちに
突然恥掻きっ子は脳髄を重く感じた

地上に降り立った彼は真っすぐ天を仰いだ。
天頂には黒い月が輝き星一つ無い。
右腕を真っすぐ上げ
彼は天頂の黒い月を指さした。

彼は 今 ヒトになる。
っと 同時に薄暗い想念が横切る。
そして、
そして、孤独、寂寥感

悩みという名の荷物を背負って
沼の周りの黄色い道を歩きだした。
ゆっくりと

    3

碧く淀んだ沼の天空に
鈍く光る月明かりを
じっと受けている猿一匹
沼の水面から首を出し
辺りに潜む得体の知れない瘴気を伺い
この沼が池だった頃の
(猿の)古老の話を思い出す
早くこの沼を抜けねばと決意し、
沼の淵を巡りながら
湿気の多い草叢を抜け出した。
あとは山を下りるための坂道を転げ落ちるようにして
疾走した。
とりあえず疾走した。
沼周辺の瘴気に包み込まれ何かに引き摺り戻されないよう
猿の名はイザナギ
天を指さし直立した猿

沼地から離れずにいたがついに
離れる決意をし、池だった頃の面影のない沼を棄て、
係累から疎まれていた彼に後悔はない。

歩いて歩いて歩いて歩いた。
あるいてあるいてあるいてあるいた

彼の行く手を阻む森の影
彼の目を眩ます霧の魔物
彼の鼻腔を破壊する強烈な腐敗臭
彼の耳元で囁かれる断末魔の呟き
彼の足下を掬う臭気のある泥腐敗物
彼の頭上には青い月明かり

ほうほう と鳴く梟は山の猖獗
闇の怪物の分身だ
ホウホウ
ホウホウホウホウ
ホウホウ

夜道に灯りはないが
月明かりのもと
月の与える智慧に
道行きを急ぐイザナギ
ひたひたと歩く彼に
ヒトとなることが何ほどかの意味があろうか


彼の足下はうねったまま
彼の歩みは逞しく
雄々しく彼の行き先に続いて行く
延々と歩いた先はヒトのいる先
月は智慧を彼に与える。
智慧は彼に苦悩と目的を与え
伝えるヒトを探す。



    4

森の外れまで歩いてきた類人猿を
眺めていた私は
突然軽い目眩を感 じ意識が遠のき
目覚めたとき体毛のため小枝が絡まり
藪の中で身動きできなくなった。
藪の中はせいぜい蚊が飛び交う程度で
表皮の厚くなった自分には何の痛痒も感じなかった。

藪の中で森の外の様子を窺う
山を下る道は舗装され
自動車の走行には向いていたが、
裸足の足には痛そうだ。
しかし類人猿は歩き出す
自分は歩き出す
足取りは軽いが気は重い

月の青々とした光を背後から浴び
幾分猫背ながら威圧感のある影を地上に落としていた。
月は彼を急かす
月は彼を動かす
月は彼を狂わす。


    5

類人猿は歩きながら
歩きながら
空腹を覚え
傍らの虫を食う
傍らの虫を食らいながら
道を見る
道はゆっくりカーブし森の陰に行き先をブラインドし

森の中央から降る
得たいの知れないチャフ
天空から降り注げば
幸せと思うほど
類人猿は気楽ではない
その一枚を咥え

また歩きだす。
チャフの散布で
また方向が不明となった
類人猿は空腹を覚え
枝の中途にある鳥の巣に気づき
卵を掠め取る。

    6

成り成りして成り会わないところと
成り成りして成り余っているところを
刺しふさぎて

霧に包まれた丘の上に浮かぶ洋館
その二階の出窓は開け放たれ
類人猿の咆哮が丘の下まで響き渡る

すべて霧の中 洋館の輪郭は滲んでいる

咆哮する類人猿
じっと視線をこちらに向けたまま
直接頭に語りかける。
落ち着いた意識で

しかし

イザナミ?

私はイザナミでは無い。
おまえは最初のヒトではない。
歩き疲れた猿ではないか。
私はおまえを知らない
私はおまえと何を語ればよいのだ
おまえの子など孕めない
片端しか

突然穏やかな意識は荒れ狂い
意識の中ですら
砂嵐のような混乱

イザナギは叫ぶ

もういやだ。
もう二度と歩かない
なぜ歩かねばならないのだ。
俺はおまえに会えと言われた
だが俺はおまえを知らない
おまえは俺を知らない。
俺は猿では無い
おまえは一体何者だ

いずこへ

イザナギは虫を食わない
 施しを受けたものも食わない
イザナギは獣の肉を食らう
 路傍の草ももちろん食らう
イザナギは自力で掠め取る
 食い物を自力で掠め取る
イザナギは人を殺す
 カンに触る者はなんでも殺す
イザナギは恫喝する
 自分を畏怖しない者を恫喝する
イザナギは闇夜に潜む
 自分の正体がばれないよう闇夜に潜む
イザナギはヒトを騙す
 騙される前に騙そうとする。
イザナギは神を騙す。
 神とは何だ。何をしてくれた。
イザナギは女を犯す
 ただ生殖のため、イザナミに会うためのつなぎだ。
イザナギは悩む
 もういやだ
 もう二度と歩かない
 
結局何か意味があったのだろうか
俺は何者だ

 イザナギは咆哮する。
 イザナミに向かって咆哮する。

成り成りして成り会わないところと
成り成りして成り余っているところを
刺しふさぐ

真の天照
水蛭子を産ませるため


    7

伊弉諾(イザナギ)の瞳孔は黒く大きく開かれたまま
イザナミを見つめる。

霧の晴れた夜空に
青く光る月の粒子を浴び
伊弉諾はまた咆哮する。

我蘇る
「われは入鹿なり」
「われは素戔嗚尊(スサノオノミコト)の化身なり」
「われは事代主の化身なり」
「われは一言主の化身なり」

我蘇る
「私に何の罪があるのか、お裁き下さい」
退く皇極帝に縋る我が身の悲しさよ

類人猿は咆哮する。
伊弉諾という名の素戔嗚尊
蘇我入鹿の怨霊か

そこから水蛭子が生まれるか。
イザナミは逃げる
逃げる。かの類人猿の頭上を越えて月に向って逃げる。




自由詩 月の嗤うさき ー第二稿  Copyright ……とある蛙 2012-12-17 11:29:51
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