クラシック音楽への憧れ
番田 

音楽は何をすることができるだろう。それ自体、音楽は実体をもたないのであるけれど、演奏者の演奏への手厳しい姿勢をクラシック音楽では要求される。作曲ができなくても、楽器の前では演奏者としてだけ評価される世界がある。そこでは過去の偉大な作曲者たちの曲を演奏するに足りる技術のみが問われるのかも知れない。曲を作曲してみたところで、希望にかなう演奏は作曲者には何も約束されてはいないわけだから、そういった意味でも、演奏者を目指してみるだけの価値は十分にあるように思われる。ところで今日、人の使う言葉の中にもそういった変わり身のような要素があるような気がした。私は学芸大前の電気屋を歩いているときに、秋葉原の路地裏のような電子音を耳にした。それはクリスマスソングだったが、あちこちの音が簡略化されたような音だった。なんとなくではあるが、それはクリスマスソングであるとわかった。音楽などと言うよりも、そこで流れていたのは、例えば記号化された信号のようなサインだったのかもしれない。モールス信号や昔の電報もそうであったように、言葉自体が信号に置き換えられるのかどうかという問題がここでは生じてくるが、それは、私には可能であるように思われる。音階は記号として人の耳には伝わりずらいのである。つまり、音楽を信号として捉えようとしても、それはなかなか難しい問題なのかもしれない。


散文(批評随筆小説等) クラシック音楽への憧れ Copyright 番田  2012-12-11 02:31:35
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