海の誘惑
まーつん
頭がボーっとする
鼻かぜらしい
長椅子に背をそらして
胸の奥から息を吐くと
白い蒸気がもくもくと
汽船のように立ち昇る
僕は突然
大洋の中にいる自分に気付く
月夜の海を航行する一隻の客船
それが僕だ
鋼鉄の身体をくすぐる波の指先
甲板の上には大勢の乗客
ニッケル硬貨の輝きを放つ満月が
にやにやと薄笑いを浮かべながら
夜空に張り付いている
そして波の下にはたくさんのサメ
暗い欲望で その眼を黄色く光らせながら
ゆっくりと船の下を回遊している
海が語りかけてくる
゛あなたがその身に乗せたのは
思い出の中の人々よ
あなたをたくさん泣かせたり
怒らせたりしてきた人々
記憶の中に生きる彼らの魂が
今 客船となったあなたの身体の上で
一堂に会して パーティーを催しているの
酒の肴に語るのは 如何にあなたを傷つけたかということ
あなたの純真を手玉に取り その素直さに罠を張り
屈辱の中に転ばせた 手柄話を語っているのよ ゛
僕はその声に驚いて
洩らした吐息が汽笛となった
海は蠱惑的な女の声で 復讐への誘惑を囁く
゛あなたがその身を傾ければ
彼等は海になだれ落ちる
わたしは波の手を伸ばし
彼等を鮫の餌にする
そしてあなたは
記憶の中の忌まわしき人々を
まとめて片づけることができるのよ
もう二度と過去を振り返って
怒りの炎に身を焦がすこともない
悲しみの涙に頬を濡らすこともない
どうかしら
私に彼らを預けてみない? ゛
僕はスクリューを回すのも忘れて
夢の中の囁きに聞き入っていた
人気のない操舵室では
ひとりでに回っていた舵が凍りつく
船上では 夜会服に身を包んだ乗客たちが
カクテルグラスを片手に談笑している
僕の人生の中に現われた たくさんの悪役たちが
見知らぬはずのお互いに 親しげな笑みを浮かべ合う
彼等の装いは一様に黒 そう 皮肉にも 葬送の義の参加者のように
風邪の熱に浮かされた 僕の夢の中に迷い込んできた
彼等の魂 今それを 一網打尽に葬る機会を 僕はこの手に握っていた
思い惑う僕の行く手に
澄んだ氷塊が浮かび上がる
磨き上げた水晶のように
月の明かりに瞬いていた
゛あれが あなたの目覚め
あの氷山にぶつかったとき
あなたの夢は、その船体ごと砕け散り
長椅子の上で 我に返る事でしょう
そうなる前にけりを付けたければ
今すぐその身を揺らすこと
然すれば目覚めた暁に
彼等はみんな死んでいる
そしてあなたの記憶から
彼等はみんな消えている ゛
僕が迷っている間にも
氷山は容赦なく近づいて
僕は思わず叫びをあげ
それは怒涛の汽笛となって
船上の客を驚かす なんだ? なんだ?
無人の艦橋を見上げる
彼等の顔 顔 顔
沢山の魂 沢山の心
海は盛んに急き立てる
゛さあ、はやく はやく
それが欲しいの あたしにちょうだい ゛
行く手にうねる 波間が割れて
すらりと伸びた 二本の足のように割れて
その間には 銀色に鱗を光らせる たくさんの鮫がひしめいて
僕/船は思わずよろめいた
傾いた背中から雪崩落ちる
沢山の乗客たち 悲鳴と共に
水音 血しぶき 噛み鳴らされる歯
゛やめてくれ゛
引きつり声で 僕は叫び…
目覚めると
天井が僕を見下ろして
汗が総身に噴き出して 長椅子の手すりが
転がり落ちようとする 僕の身体を引き留めていた
水を一杯飲もうかと
立ち上がった己の顔が
食器戸棚のガラスに映る
剥きたての卵のように
全ての皺が消えていた