そのひとは腕時計を見る
HAL
そのひとは腕時計を見る
そのひとの腕時計は1分1秒狂ってはいない
そのひとにもなんのためかは分からない
でもそのひとは腕時計を見る
そのひとにもなぜ正確に時刻を合わせるのか
でもそのひとは腕時計を見る
それがなにかの意味をもつのか分からないのに
でもそのひとは腕時計を見る
もうなんにんの家族に時刻を告げてきたか
もうそのひとも忘れ去っている
ただいつも正確な時刻を告げるために
そのひとは腕時計を見る
家族に時刻を告げるとき
そのひとはアウレリウスの言葉をこころで呟く
それで魂を救えるとはそのひとは想っていない
でもそのひとは腕時計を見る
アウレリウスの言葉をただこころで呟きながら
そのひとは腕時計を見る
そのときそのひとは医師でもなにものでもない
ただ去りゆく魂を看送るものだと
そのひとは知っている
だからそのひとは腕時計を見る
『永からぬこの時を自然の性(さが)に従って生きとおし、オリーブの実が、熟すれば、自
分を生んでくれた大地を賛え、幹に感謝しつつ、大地に落ちるがごとく、心穏やかにその
時を終えることである』(マルクス・アウレリウス《自省録》より)