ディメンション
由比良 倖

感情は、体外に増設可能。なぜ、あなたは飛ぶ記憶を持っているのかな? なぜ私は深海の花の記憶なんて持っているのだろう。体重が六五キロでも四五キロでも私は私で、だとしたら私はどこまで小さくなれるのだろう。また、小さくなった私が、縮尺に関係なく空に弾ぜるなら、私は消えてしまっても、いい。思念は、どこかで形を持ち、高圧電流の中で、私はきっと快感に打ち震えている。私はそれを感じる。

うまくは言えないけれど、僕はときどき、輪郭の外にいるんじゃないかと思うんだ。世界観は植え付けられたもの。ありうべき形、それは必ず孤独を伴う、思い出すときの、触感、私はそれに触れられない。記憶の種と、それを巡る物語があるなら、ページの隙間の絶え間ない平原であなたと私が棲まう、永久冷凍保存された神話のエネルギーで稼働し続ける光の都市を増設(設計士なんだ)しているのが僕。

感情は求める「もっと飛びたい」って。私は捧げる記憶の翼を。突き抜ける空の青さ、それを産む想像の鼓動。重力が歪む。ぎしぎし云う。ヘッドホンが十七世紀を運んでくる。私はただの肉になって、そして敵意を受けている。誰かの幸福のために生産される涙。私は三一世紀まで、笑いひとつ浮かべず、生き、そして、腕を切り落とされる。必要ないからだ。そして僕たちには言葉すらも必要ない。ドアを開けると僕が立っている。「僕の喜びと君の悲しみを交換しよう」どちらかが言う。

私はそこで、裸にされた世界と出会う。

もっとも充足された、一つのありかた。ただ、出会わなければならず、忍耐などそこでは重要にならない。白刃の上を渡り続けるのに必要なのは、スピードだ。絶え間ない燃焼、もしくは間歇的な爆発がどうしても要るの。

歌は最も小さな声で歌われるべきだよ。それは線状にたなびき私たちの神経をやさしく焼き切る。私たちが、こうして一つの記憶となるためには、私たちは投げ出してしまわなければならない。ピアノがピアニストと出会うようにして、私たちは世界と出会わなければならない。あるいは地球と言い換えても。詩でも。鳥を探し求める鳥籠は、目を瞑っていればじき消える。なぜならあれはひらがなに溶けて、見えなくなってしまうから。

私たちに枯渇はなく、あるのは全ての私だけの地平。空。死さえも重要じゃない。故意じゃない。私は私であるしかないんだ。

私たちは消費されるイメージの中で成長していく。


自由詩 ディメンション Copyright 由比良 倖 2012-11-18 20:34:43
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