境界A
緋月 衣瑠香
鏡の中で紅潮した私がこちらを窺っている
小柄な体から伸びる肢体は
年に見合わずに隆々と天地に抗う
風を切る快さ
山の心地よさと厳しさ
教えてくれたのは父だった
いつかの黄ばんでしまったスケッチブック
その中に広がるのは約三十年前の山の景色
知らないけど見慣れた世界
雷鳥の親鳥が卵を傍らにおく
私の耳が目が
父の体に染みついた記憶を吸いこんでいく
花を咲かそうと実をつけようと
こんこんと私の全身へと運ばれていく
その間 父は衰えていく
消費していく私
消費されていく父
小学一年の秋 休日夕方
父に伴走されながら走り方を教わった
初めてのマラソン大会で賞された
それ以降
私はマラソン大会で活躍したことはない
父の頭のほんの一部が死んでいる
長野と山梨の県境にある山の向こう側から
もしかしたら母よりも父を知っている山仲間が
父を手招いている
料理好きなおじさん直伝のビーフシチュー
丸一日煮こんだそれは野菜の角は落ちお肉はほろほろ
母が毎年私の誕生日にそれを仕込む
とても幸せな一日の終わり
なのに去年は嗚咽を漏らさないようにそれをかきこんだ
きっとあのおじさんは
私にオセロや自然な水晶を教えてくれたおじさん達と
あの山の上で宜しくやっている
そんなおじさんたちが父をおいでと呼んでいる
出るはずだったマラソン大会
主治医も出るらしいけどあの人より絶対早く走れる自信があった
なんて
笑いながら病院帰りに参加賞を貰って帰ってきた
少しだけ父の背中が小さくしぼんで見えた
私の全器官は吸収力をおさえることはない
ひたすら父から母からその周りの人から
ぐんぐんと吸いこんでいく
花は咲くのだろうか実はなるのだろうか
二十回目の誕生日に
再びビーフシチューを口にした
私は笑っている
父も母も兄も 笑っている
その間も私は止まらない
誰も止まらない
花もましてや実もつくか分からない
だから
もう少しだけ
もう十分たくさん貰ったから
もういらないから
その背筋がそのままであるように
子供のままで大人であろうと
鏡の中の私は赤いようで青い
知るものか