不正咬合の女
salco
井桁出歯子の独白
かあさま、親とは
生した子に指を食べさせるのではありませんのか
あなたは
寂しむ赤児に自分の指をお与えになる代り
こんな醜い欠乏の容貌にわたしを育みました
『指を惜しむならウエハアスを存分に買い与えなくてはならない』※
かあさま、あなたは
そんな事さえお出来でなかった
あなたの手指もとうさまの趾も足らぬので
わたしは、男の指を
交わりの際に女の口をこじ開けて征服の象徴に入れたがる
下郎の指を、この醜い口腔で
恭順と媚態を以て誠心誠意ねぶらなければならない
生まれてこのかた母体に愛された事がない、
つまり愛される為に生まれたのではなかったのですから
寵愛を失うのではと奴隷仕えしなければならない
かあさま、あなたは
客船を夢見て棺桶に乗り込んだ、
活かされようとして死体になってしまった女
あなたは
窓辺でよそを羨み、指しゃぶりと歯噛みばかりしていた
何も出来ないくせに多くを望み心に逃げて
自らの至らなさとあらゆる現象の至らなさを言い訳に
愚痴吐きと悔し涙に掻き暮れる、
そんなかあさまに捨て置かれ
わたしは
窓辺のひとに指しゃぶりをしていた
とうとうとうさまに愛想を尽かされると
あなたは
ふさぎ込んで根太の下へと潜っておしまいになり
わたしは
家でも授業参観の教室でもずっと待っていた
どこかに行ったままのあなたを待ちながら懐かしい夢を見
我に返ると
よその母子を羨んで指しゃぶりしていた
だからこんな歯になってしまった
お友だちを作らなければ容貌でからかわれ
いじめられる
お友だちには出しゃばりと疎まれ
ヘドモドも蔑まれる
中学入学の翌日わたしが泣いて帰った時
転校したいと泣きじゃくる背をさすりながら
あなたは
娘の顔をからかった同級生の男子を育ちが悪いと罵り
呪いの言葉を並べるだけだった
高校の夏休みの前の週
わたしがマスクを外して
歯列矯正を受けさせて欲しいとお願いすると
あなたは怯えた目になり
十二年もいないとうさまを家族を捨てた人でなしと罵り
呪いの言葉で括っただけ
「それはいくらかかるのだい?」
との社交辞令さえ物惜しみ
決してご自分の指を払おうとはなさらなかった
上顎突出と言うのですよ
さしすせそが
ファフィフフェフォになるのです
まみむめもは
ワウィウウェウォになるのです
真面目な物言いが間抜けに聞こえ
はじらいの媚態が気色悪い薄笑いに見え
端座の食事さえ下品に映るという事です
高校も大学も特別奨学金で通したわたしに
だから頭の悪い下司しか寄りつかない
この口許が同じ育ちと思わせるのです
そしてわたしは指をしゃぶる
寝ても覚めても昼も夜も
交接の間も指をしゃぶる
白くふやけて爪もない指先を
眼窩の中でねぶっている
あゝ、
すすり上げてもすすり上げても垂涎やまぬ
焼き海苔とか酢昆布とかワカメが噛み切れない女
(※)…オーギュスト・デロンギ博士著「代償物理学療法研究」より