手慰み
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十五歳のころ、文学なんてものは、自分には関係のない分野だと思っていた。
当時、遠藤周作というカソリックを信仰する流行作家が活躍していて、テレビのコマーシャルなどにも出演していた。彼は小説の他に、俗に云う「笑えるエッセイ」も書いていて、その何冊かが生家にあった。親が買ったものだ。読んでみると、ちっとも笑えない。笑えないどころか、腹が立った。遠藤はそのエッセイの中で、学生時代に、自分が、いかに愚鈍であったか、劣等生であったか、繰り返し語っていた。しかしながら、学校での国語の教科書に遠藤の文章が掲載されていて、プロフィールを見ると、慶応大学を卒業し、その後フランスに留学、とあった。「ケ!」、本格の劣等生だった私は腹を立てた。小説家などというものは、そうやって、劣等生の味方であるようなふりをして、実は心の底では私たちを小馬鹿にしているのだ。そう思った。
遠藤は、それらのエッセイの中で、よく自分の文学仲間のことについても書いていた。その中の一人に吉行淳之介がいた。吉行は、売春禁止法が施行される前に、娼窟に遠藤を案内し「これから見本を見せる」と言い、ある娼家の階段を上がって行く。ところが、交渉が上手く運ばなかったのか、娼婦に尻を蹴られ、階段から転げ落ちてきたという。私は、このエピソードに好意的な興味を持った。本屋で吉行のエッセイを見つけ、買い求めた。読んでみると、遠藤のものとは趣が違い、文学というものが解りやすい例え話で説明されていた。例えばこんなふうに。
世界に受け入れ難い魂が片隅に追いやられ、壁際に押しつけられるとき、魂は壁を蹴り、その反力を利用して自分の行くべき所を探しにゆく。
私は直感的に「これは正しい」と感じた。吉行はこんなことも書いていた。萩原朔太郎の詩についての解釈で、その詩には食器のフォークが「ふぉーく」と表記されていて、これは「ふぉーく」でなければならず、「フォーク」だと、この詩は成り立たない、と主張していた。何かよく解らないけれど、それは正しいこだわりなのではないか、と思った。
以来、吉行の著作を読み耽った。最初はエッセイを、エッセイがあらかた片付くと、短編集を、活字を目で追うことに慣れてくると、長編小説を。
こうして、私は「文学」というものに触れたのである。だからといって、文学漬けになったりはしなかった。当時の私は、ロックバンドでベースを弾いていて、頭の中は常にバンドのことでいっぱいであった。バンドのことが頭にないとき、文芸書を広げたに過ぎなかった。
ともあれ、吉行のエッセイはブックガイドとしても機能しており、いろいろな作家のいろいろな作品を読んだ。乱読であった。
そんな「文学」とは付かず離れずの状態が十年ほど続いた。そのころ、音楽活動も尻すぼみになり、以前より積極的に文芸作品に親しむようになっていた。谷崎を読んだ。川端を読んだ。三島は、あの猟奇的な死が嫌で近づくことはなかった。太宰に酔うには、歳をとりすぎていた。
時は過ぎ行き、私は四十歳になっていた。世はIT時代を迎え、ついに、私の部屋にもパソコンが来た。ネットサーフィンするうち、文章投稿サイトなるものに行き着いた。そこでは、作家志望と思われる若者(おそらく)たちが、思い思いの作品を投稿し、それを読んだ者たちの感想が載っていた。私は驚愕した。小説などというものは、素人が書いてもよいものなのだろうか。ああいうものは、選ばれし者の特権なのではなかろうか。ロックミュージシャンのように、特別な何かを持っていて、その代わり、世を渡ってゆくに必要な何かが欠落してる者たちの世界。だが、それは愚かなる思い込みであったようだ。考えてみれば、小説は言葉で出来ている。言葉は誰もが持っている。従って、だれが小説を書いてもおかしいことはない。ならば、この私も挑戦してみようではないか。こうして私もそのサイトに投稿するようになった。褒める感想もあった。貶す感想もあった。何年か経つと、書くのが苦痛になってきた。元々物語を紡ぐのが不得意な私は、過去の自分の経験から題材を持ってくることが多かったのだが、私の井戸は五年で枯れた。書くのに飽きてしまったのだ。枯渇を意識してから、また五年が経った。今ではあの投稿サイトを覗くことも少なくなってきた。日曜作家の看板を掲げているが、あのサイトで、定期的に開催される祭りに参加することも滅多になくなった。
創作文芸は、四十を過ぎて覚えた手慰みのつもりだったが、今のところ、まだモノになってはいない。しかし諦めたわけではない。 私は私のペースで、これからも気長にやるつもりである。