ギフト
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リボンを解き箱を開く。赤い花束の一部が見えた瞬間、混入されていた爆発物が発火した。鋭い閃光が放たれて視界の全ては真っ白になる。頭を貫く耳鳴りが徐々に遠ざかる、遠ざかる道程には乱れた鼓動が穿たれる。穿たれた穴にか細い風が吹き込んで耳障りな音を立てている。風は乾ききっていて音は今にも壊れそうだ。耳をくすぐるその感触がやたらに生々しい。まるで誰かが息を潜めて小声でなにかを早口に呟いているのをヘッドフォンごしに目隠しされたまま聞いているかのようだ。鼓動が鎮まると次に騒々しい足音が流れ込んでくる。視界の濃淡が鮮明になり焦点が合わされると景色の右半分にはザラザラしていて堅い質感の壁があり、その左半分は様々な色と形を持った靴が上下へと飛び交っている。乳母車の中にいた彼は、爆発の衝撃によって路上へ投げ出され倒れ込んでいた。まだ、火薬の匂いがシャツに残っている。
上体を起こし、景色の上下左右を正常な位置に立て直す。見上げると人の顔、顔、顔。顔はどれも似たような表情で真夏の空の下、一定の速度で左右へ流れている。そのさらに上方、高層ビルが空を占有し巨大ヴィジョンが映像を流している。エコー映像だ。頭部がやけに大きく感じる胎児が交差点の背景で大写しにされている。彼は無意識に口を開け、親指を銜えようとしていた。しかし、しゃぶる親指はどこかへ吹き飛んでしまっていて、こぶしから突き出た骨がただ鼻の先を引っ掻くだけだった。彼は仕方なく乳母車を乗り捨てて、雑踏へと歩き出す。不在となった乳母車。造花の花びら。その傍らには彼の背中を見失ってしまい立ちすくんでいる母親がいた。
母親は静かに花びらを拾いあげ、拾いあげるたびに風が吹き手の中に集められた花びらは散ってしまう。それを何度も繰り返しているとどこからか懐かしい声が聞こえた気がした。振り返る、が誰もいない。見上げた先には子宮の中で安らかに呼吸をする胎児の映像。弛んだ手の平から花びらが舞う。視線を乳母車へと落とし、かごの中へ残っていた花びらを手で払い落とす。母親はそこへ自ら腰を掛けると膝の上で重ねた皺だらけの手の甲に、故郷と、町と、酒場と、スケートリンクとかつての恋人と、それらにまつわる全てへ影を落とす薄汚れたシーツのような雨雲を映しながら、背後からやさしく誰かが乳母車に手を掛けてくれるのを待ち侘びていた。ヘリコプターが、八月の空を手を上げ横断している。
雑踏へ消えた彼は人混みを押し分け走っていた。飛び交う罵声の全てが彼の耳には祝福の声に聞こえた。人や車の間を縫い、駆け抜けたその背後で次々にパーティーグッツが軽やかに破裂音を鳴らし紙テープが撒き散らされる。その内、彼の腕は掴まれ、もつれた足が空を切り、頭から転倒しそのまま背中を壁に強く打ち付けられてしまう。掃き溜めのねずみが口々に彼の名を叫びシュプレヒコールを上げる。人々が足を止め、彼を見下ろし何かを耳打ちしている。背を預けてしまった壁には古びた排水管が延びている。そこから白濁した水が滴り落ち、欠損した指の付け根にある傷口を洗った。人々の抑えられた口の動きを見つめながら彼は呟く。声を上げてくれ、もっと声を、もっと口を開くんだ、産まれたばかりのように、声を。
街の血液が一挙に流し込まれ、膨張し、突き破って顔を出した性器のようにこの夕空の下では比肩するものがない高層ビル。避難用階段。彼は屋上を目指していた。靴底が床を叩くたびに低い金属音が辺りに反響する。近隣のビルをほぼ全て見下ろせる高さにまで上りつめたとき、彼は足を止め舌打ちをした。しくじった。千を越える段数をひとつずつ上って来たというのにどこかで一段抜かしたままここまで来てしまったかもしれない。大したことではないと思いながらも心の隅では気がかりでならなかった。その一段に足を掛けなかったことで、今向かっている目的地がまるで撮影を終えて演者のいなくなった映画のセットのように、迷いなく解体され全く違う景色にすり替えられてしまっているような気がした。引き戻そうかと足りない指で階数を数えているうちに、その手は屋上の重い扉を押し開いていた。
屋上には一台のヘリがとまっていた。近づいてゆくと彼の到着を待っていたかのようにドアが開いた。コックピットの後方に乗り込むと中には航空ヘルメットを被った操縦士がいた。それを見たとき、まるで蠅だと思った。翅の無い、大きな蠅だと思った。操縦桿が握られ機体が震えだす。その震えは一瞬で体の先にまで伝達され安定した浮力を感じると機体がゆっくりと上昇した。操縦士は何故だかとても嬉しそうにおしゃべりしていた。しかし回転翼の音がうるさくて、その殆どは聞き取れなかった。操縦士には彼と同じように親指が無かった。外を見るように促され、窓に顔を近づけると街には光の粒が溢れていた。蛆の群れ。そう思った。ぬらぬらと輝く蛆の群れに首都高速都心環状線は骨までしゃぶられて、なお渋滞が続いているのだ。
夜空を周遊し、ヘリはあの巨大ヴィジョンが設置されたビルに近づいていた。母はまだ、そこにいるだろうか。少しずつ高度が下げられ交差点へ近づくごとに、自分の体が少しずつ小さくなってミニチュア模型の世界に入り込んで行くような気分になった。人々が空を見上げている。交差点の真上でホバリングを続けていると目の前で眠っている巨大な胎児が体を震わせ始めた。そして今にもこのまま機体ごと飲み込んでしまうかのように大きな口が開かれたとき、操縦士は彼に向かって叫んだ。だが、やはり翼の音に掻き消されて上手く声を拾うことが出来なかった。彼はもう一度聞きなおそうとした。しかし、それは必要ないことだと分かった。都会の夜はとてもきれいだ。母がこちらへ手を振っている。お誕生日おめでとう。たしかにそう言っていた。いちばんの友人みたいに、盛大な祝福と共に。