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はるな


夏休みでした。水族館へ連れて行ってもらい、夕食付きのホテルへ泊まった。
水族館では、いるかの跳ねるところと、くらげの展示と、あしかのショーの最中に、濡れたあしかの肌が、おどろくほどすべらかなさまであることが愉しかった。(あしかのショー自体は退屈だった)。

お盆の最中に遠出した思い出がないので(わたしが覚えていることじたいが極端にすくないので、遠出したことはあるのかもしれない)、こんなにも人があふれるのだということにも驚いた。しみのないやわらかい子どもの肌にはりついた髪の毛の細さ。
ちいさな子どもに見入ってしまう。愛されていそうな子どもも、そうでなさそうな感じのする子どもにも。ひどく凝った洋服を着させられている子どもも、よだれが乾いてかさかさになったスタイをしたままの子どもも、泣いている子どもも、笑っている子どもも、ぼうっとして眠りにはいる寸前の子どもも、みんな、信じられないくらい、白目がきいんと白いのだ。

転んだ子どもを抱き上げる母親の腕を、汗を拭いとる母親の手もとを見るたび、たぶん、憎しみにちかいような感情が湧いてきて立ちすくんでしまう。すこし前までは、それが憎しみだとはわからなかった。こわいんだと思っていた。
母親が憎いのではなくて、見知らぬ子どもが恨めしいのではなくて、たぶん、思い出せない自分自身が憎いんだろうと思う。愛されていないと思っていた時期もあったし、愛していないと思う時期もあって、でも今は、両親からは愛されていたし(人それぞれの愛の解釈の違いというもの)、たくさんの親切を受けていたことを知っている。
知っているけれども、思い出せないし、まして理解できはしないので、やっぱり、わたしは、そのすべてがくらりと憎くって、立ちすくんでしまう。そして、立ちすくんでいると、夫がやってきて手を握ってくれる。どうした、熱中症か、お茶飲んだか。

わたしはきっと、物事を理解する過程にいるのだ。
いまはちょうど、苦しくて、憎い時期なのだ。そしてその苦しみや憎しみを味わうしかない。時間はなかなか進まない。でもある種の物事は、そのようにしてしか理解することはできない。そうしてこの時期が終われば、この苦しさや、憎しみは二度と思い出すことができない。理解できないと思ったことさえも思い出さない。

でもわたしは、まだそれを理解していないし、苦しみを苦しみきっていない。
もしかしたら死ぬまでの間に理解しきれないかもしれないし、来週にはすっかり理解して忘れてしまっているかもしれない。そう、偉大なのは、忘れるということだ。
多くの物事を、忘れることで、理解してきたし、あきらめてきたし、生き延びてきた。忘れるということは、生きのびるということでした。そしてそのことがいま、呪いのようにまとわりついて、世界のすべてを憎むような、あたらしい気持ちをわたしにもたらしている。



散文(批評随筆小説等) 8/14 Copyright はるな 2012-08-15 23:47:42
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