さよなら、と黒焦げた蛾は言った
ホロウ・シカエルボク





人々が浮かれた声を上げる明け方、俺は
狂った声を壁の穴ぼこにねじ込み続けていた
その向こうでは標準的な雨の音が隣家の屋根を叩き続けて
睡魔はとりあえず二の次にされていた
生きることは肉体を雑巾のように絞り上げることだ
たとえそれで繊維のひとつふたつ失うことになってもだ
雨に打たれたわけでもなのに俺は濡れそぼって、そう
うんざりするほどの湿気に汗をかいていたんだ、肉体的な話だけをするなら
現実はそんな風にしか語ることは出来ない
明るい方へいらっしゃいよと窓の向こうでノックする蛾が
こ洒落た柄のハンカチみたいなでかい蛾が
それから偽の太陽に焼かれて焦げた
雨は相変わらず降り続いていて…
どんな運命でもきっと俺は生きることを選ぶだろう
そこに俺が並べるための言葉があるだろう
黒焦げになった蛾は小さな屋根の上にいる
小さな屋根の上から俺のことを見ている
明るい方にいらっしゃいよとそれだけを囁くのだ
なあ蛾、お前、死んだぜ
俺はそいつがきっと気づいていないと思って
窓に近づいてガラス越しにそう言った、やつはたぶん少し笑って
そんなことどうだっていいことだと言った
肉体だけが生でなかったとしたら、あたしは明るい光にたどり着いたって事なのよ
お前、それで何が言いたい
この俺にいったいどんなことを伝えようとしている?
俺は肉体か
俺は精神か?
精神ばかりの生は、肉体を捨てるのか?
肉体ばかりの生は、精神を否定するのか?
あるいはそのどちらでもなく
そしてそのどちらでもあったりするのか?
あんたは嘘つきじゃない、と焼け焦げた蛾は言う
どちらかに決めることがそれほど重要なのかしら?嘘と本当は真っ直ぐに引かれた一本の線だわ
そこにはただ心ってものがあるだけなのよ
希望と絶望もそう
そんなものあんたたちが作り出したまがい物にすぎないわ
私達は等しくただ生きてるだけの存在よ、そこにはどんな真実もなければ
どんな嘘だって存在しないのよ
だから私は光に導かれるままにこの身を操った
焼かれるとか焼かれないとか…そんなこと始めから関係なんてなかったのよ
あなたは詩を書くんでしょ、格好を付けるために書いてる訳じゃないんでしょ
尊敬されたくて書いてるわけでもないんでしょ
ひとかどの人間に見られたくて書いてるわけでもないんでしょ?
伝えたいことがあって
書いてるわけでもないんでしょう?
導かれるとき、そこには何も他のことなんかないのよ、ただふらふらと、ふらふらと、そこへ流れていくだけなのよ
あんたに話しかけたのはだからなのよ、あんたは風が吹くことや雨が降ることと同じ原理で詩を書いているから、他の何かのために書いている誰かとは違うから
ねえ、あのね
死ぬや生きるやなんてことは記号みたいなものよ
歯科検診の診断書と同じようなものなのよ、そのことたぶんあなたは分かってるわよね?だってこんな時間でもなけりゃそんな詩書いたりしないでしょ?
あなたは小手先の装飾なんかじゃ満足しないわ、あなたが付けたい色は動脈と静脈の色だもの
ねえ、あたし、それが分かるのよ
ああ、と俺は言った、ああ、とひとことだけ
蛾はこのやろ、という感じで羽を小さくゆすった
そのせいで
やつの羽の輪郭はぼろぼろと崩れていったのだった
雨は次第に勢いをなくし
隣家の屋根の上では呟きみたいな音だけが残った
車がクルージングみたいに飛沫を上げながら通り過ぎ
そして俺はとうとう眠くなってきた
おやすみ、と俺は蛾に話しかけた
さよなら、と黒焦げた蛾は言った
雨はもうすぐ上がろうとしていた
俺は窓から離れた、うんざりするぐらい汗をかいていたけれど、だけど
たぶんぐっすり眠れるのだろうと俺は思った








自由詩 さよなら、と黒焦げた蛾は言った Copyright ホロウ・シカエルボク 2012-08-15 09:59:05
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