時代外れなエッセイ 虫
佐々宝砂

夏休みは毎年キャンプにでかける。たとえ休みが一日しかなくても無理矢理でかける。わざわざキャンプにでかけなくてもうちは田舎にあるから山のふもとに住んでいるようなものなのだけど、やはり山奥にまで入り込むと、空気が違う。水が違う。植物が違う。住んでいる虫が違う。違いがあるから山奥に入り込みたくなるのだ。自宅にやってくる虫ならほとんどが馴染みの虫ばかりで、いちいち図鑑を見て調べる必要もないのだが、アマゴが泳ぐような渓流近くでみる虫たちは名前のわからんやつらが多くて、図鑑をみてもわからなくて、「おまえ何者だよ」と問いかけたくなる。もちろん問いかけたって答はない。虫は自分が何者なんて考えない。どんな特殊な虫だって、虫は単純に虫として生きている。

今年はばかに小さなアゲハを見かけた。形は間違いなくアゲハ、尾は短め、腹が赤と黒のストライプだったのはジャコウアゲハに似ていたものの、あまりに小さすぎた。モンシロチョウ程度の大きさしかなかった。小さいというだけでもなんだか哀れを誘う蝶だったが、なお哀れなことに鱗粉がかなり剥がれていて、今にも死にそうに思えた。そいつを見かけたのは家族連れの多いオートキャンプ場の中だったから、子どもにつかまえられそうになって羽を痛めていたのかもしれない。こいつどうせもうすぐ死ぬのだろうなと思いながら、私はその蝶をつかまえようとは思わなかった。標本にしてあとで図鑑で調べようとも考えなかった。携帯電話を持っていたから写真に撮ってもよかったなとあとで思ったけれど、写真すら撮らなかった。キャンプ中の私は本当にぼけぼけしていて、おまけにいつでもアルコールが入っている状態なので、ほとんど何の役にも立たない。

小さな謎のアゲハは、タープ中央に吊り下げた電池式蛍光灯ランタンにとまって動かなかった。私以外のキャンプメンバーは、みなバンガローに寝ると言って引き上げてしまっていた。私は一人でテントに寝るつもりだった。テントで寝なけりゃキャンプな気がしないじゃないか。しかしひとりなのであまりに暇だった。本もなけりゃパソコンもない、携帯電話は電源を切ってバンガローにしまいこんである。汚れた食器も洗ったし、鉄板も洗ったし、やることがない。やることがなくても人間は何かをやりたがるものなので、石でつくったかまどに無闇に木ぎれを放り込んで火を熾した。猛暑の都会と違って、午前3時の川辺は肌寒い。たき火はやわらかな熾き火になってほどほどに温かく、心地よかったが、身体が温まったせいか午後七時ごろからずーっと飲み続けていた日本酒が急にまわってきた。さすがにこりゃ寝なくちゃなあと私らしくもないマトモなことを考え、蛍光灯ランタンを消し、テントに入り、寝袋にもぐり込んだ。

トイレに行きたくなって目を覚ましたのは何時頃だったろう。東の空が明るみヒグラシが鳴いていたから、午前5時頃だったと思う。ふらふらと小用を済ませてから、煙草を一服しようと先のたき火の近くに座り込んだ。すると、かまど近くの石に何か小さな黒いものがあった。なんだろうとよくよく見たら、例の謎アゲハだった。熾き火の明るさを恋しがって、明かりの消えたランタンからここまで飛んできて、死んだらしかった。おそらくたき火の熱で死んだのではない。石の表面は冷えていたし、謎アゲハの身体は、焦げたり焼けたり変形したりはしていなかったから。

「飛んで火に入る夏の虫」と言うけれど、この謎アゲハは、火に入ることもなく死んだわけだ。まだアルコールを充分残していた私の脳味噌は、この「飛んで火に入らず死んだ夏の虫」のことを可哀相に思った。火に入りたけりゃ入って焼けてしまえ、焼けて死んでしまえ、その方が本望なんではないか? 私はかまどに残っていたごく小さな熾をウチワであおぎ、薪を継ぎ足した。ぐいっ、となまぬるい焼酎をストレートで飲んだ。さらに熾をウチワであおいだ。炎があがった。また焼酎を飲んだ。それから私は小さな謎アゲハの死体を炎の中に落とした。火は瞬間ちいさくなり、そしてまためらめらと大きくなり、もともと小さなアゲハの身体はあっという間に燃え尽き、紙を焼いたようなぺらぺらした灰になり、風に乗ってどこかに飛んでいった。

虫は単純に虫として生き、単純に虫として死ぬ。そんな単純な事実に無理矢理意味を与えるのは間違いなく私、人間である私だと思った。すこし、嫌気がさした。またも焼酎を飲もうとした。だが、しっかり焼酎を飲み込みきるまえに、うっとこみあげてきた。こみあげたのはもちろん、涙ではなくゲロだ。私は虫が一匹死んだくらいで泣きはしない。それがどんなに特殊な虫であったって。

キャンプ地の朝は早い。近隣のテントの人々は、そろそろ目覚め始めていた。






初出 2004.8.
蘭の会コラム
http://www.os.rim.or.jp/~orchid/column_n/index.html


散文(批評随筆小説等) 時代外れなエッセイ 虫 Copyright 佐々宝砂 2004-12-11 14:36:44
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