修羅街の人
チャオ

  それにしても私は憎む、
  対外意識にだけ生きる人々を
  ―パラドクサルな人生よ
                        中原中也 修羅街輓歌より

最近、本屋さんでアルバイトを始めた。書棚を持つことが出来ないからずっと、レジカウンターの前で突っ立ってる。あきれるくらい暇だ。でも、本に関わりたいという少年みたいな願望が、まだ僕をレジカウンターの前に立たせている。
いろんなお客さんが来る。老若男女問わない。でも、持って来る本は、あまり変わらない。そして、お客さんが探している本もいつも変わらない。スーツを着た人は、語学かビジネス。女の人は、旅行か料理、雑誌。そんなものばかりだ。十人十色だとは言うが、住人三色くらいに見えてくる。
僕は、中也のように純粋じゃない。だから、それはそれとしてよしとする。だけど、さすがに嫌気がさすときがある。本に書かれた言葉たちは、言葉のない声を発しはしない。さすがに、苛立ちを抑えることが出来ない。すぐに、名誉につながること、お金につながるものだけが売れていく。もちろんいい本だって売れる。でも、いい本も、偉い人が進めないと売れない。売れてからじゃないと売れない。本の中にひっそりとしまわれた感情を、自分の手で解き放とうとはしない。なぜだか悔しい。言葉を書く側だから?そうかもしれない。でも、そうでないかもしれない。

いつだって、感情論は時代遅れの教師のような扱いを受ける。技術も、理論も排除した感情論なんてこの世に一切存在しないのに。伝えたい言葉があり、それを伝えるべく言葉を駆使し、結局、言葉が死んでしまうこともある。それがいいって言う人もいる。残念だけど、評価されなきゃ食えないこの世に生きて、それをありがたく受け取るほかに手段はないのだ。
対外意識に生きたい思はない。なのにいつだって、誰かの目を気にしなきゃいけない。描きたいもの。受け入れられるもの。苛立ちを、葛藤を、胸中に秘め、吐き出した言葉。それが、売れても、売れなくとも、結局書いた人間はその言葉へ不信を抱いてしまう。「パラドクサルな人生」だ。

大きな波が立たず、波紋が大きければいい。でも、そんな器用なことが一体誰に出来るのだろうか?それでも、それを求める人々の言葉は、名誉や、金に埋もれてもなお、未来へ続こうとする。その世界で傷ついた心を、捨てられた心を、そっと、拾い上げることの出来る読者になりたい。

  いま茲に傷つきはてて、
  ―この寒い明け方の鶏鳴よ!
  おお、霜にしらみの鶏鳴よ・・・・
                         中原中也「修羅街輓歌」より


散文(批評随筆小説等) 修羅街の人 Copyright チャオ 2004-12-11 13:28:49
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