品川港で考えていたこと
番田 


人は暗闇の中を歩きながら、心の中からはき出される思いについてを考えているものなのだろう。何かを感じているようでいて、実は、遠のいている詩の言葉の螺旋のように、遠くに続いていく工場の埋め立て地を歩いているような気がしている者もいるのかもしれない。それはどこに続いていくのだろう。しかし、自分のいる場所からではたいがいそれは、まったくよくわからないものなのだが。

日本とはなんだろう。そして、外国とは。リビアの内戦に対して、我々が出来ることとは何なのか。だけどそれを思うには、我々には歴史的事実自体があまりにも欠け過ぎていた。

色々な言語は、どのようにして自分の頭の中に染みこんでいくのだろう。それはあまり、誰にも問いざたされてこなかった問題でもある。ところで、自分の頭の中に日本語が刷り込まれていったのはいったいいつ頃なのだろう。例えば、まだ幼い子供同士の会話を聞いていると、少ない語彙の中で必死でイメージを膨らませているという様子が見て取れる。そこで小学一年の頃の国語の教科書を開いてみると、まるで絵本のような言葉が最初には並んでいたりする。(僕は昔から、勉強が苦手な子供だったが…)そうなのだろう。例えば中学一年で開いた英語の教科書も、外人からすれば絵本のような印象なのかもしれない。それにしてもあれほど必死で勉強してきた英語も、海外に出ると全く役に立たないスキルなのだというのがよくわかる。英文で書かれた面白そうな文献を読むことも全く出来ない。それに対して、数学は全く覚えていない。これから英語を完璧にマスターすることはできるものなのだろうか。それは環境によって脳内に刷り込まれていった部分も多いと思う。あまり本を読まなかったわたしが、今まで日本語をどうやって覚えてきたのかについては、説明することは難しい。



イジメがあるのは何故なのかと、そういうニュースが流れる度に誰もがそのことを休憩時間の話題にしているようだった。テロが起きればテロについてを、銀行が潰れれば自分ではない誰かや、自分の銀行についてのことを誰もがこぞって話しのタネにする。そして、実は、誰もがそれについての事を真剣に考えてはいない。それを否定することも心の中で肯定することも、我々には一生無いのかもしれない。


自由詩 品川港で考えていたこと Copyright 番田  2012-07-15 02:20:22
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