自殺ホテル
吉岡孝次
「ホテル・ニルヴァーナ」。礼二は夏期休暇の一夜をそこで過ごすためにチェックインしていた。興味本位の、好奇心を満たすために。
自殺者が出た家屋やマンションは、それが賃貸であれ分譲であれ、訳あり物件として格安物件になってしまう。ましてや、死後の発見が遅れれば、屍体は腐敗し、その原状回復も容易ではない。そのことを嫌う良心的な(?)自殺者であれば、終焉の地に戸外を、すなわち鬱蒼と茂った森林や海に臨む切り立った岩場などを選択せざるを得ないことになる。だが、それでも屋内で死にたい、浴槽に電動シェーバーのコードを垂らして感電死したい、睡眠薬を過剰摂取してベッドの上で中毒死したい、あるいは縊死した骸を獣や虫に喰われたあげく排泄物にされたくない、といったインドア志向は厳として存在した。そんな自殺者たちの最期の願いを叶えるられる場所として「ホテル・ニルヴァーナ」(通称「自殺ホテル」)は、半ばネット上の都市伝説と化しつつも、自殺者たちの志向と同様に厳然と存在し、そして自殺者たちの営みと同様に年中無休で営業していたのである。
フロントで料金を前払いすると、カード・キーが渡された。事後の後始末に掛かる手数料分とこの期に及んで倹約に努める必要のなくなった利用者の気前良さが上乗せされた料金は、やはり割高に思えた。礼二のような一般客も宿泊できるが、それでも夜中に気が変わって事に及んだりするかもしれないので、料金が前払い制なのは、まあ当然と言えば当然であろうと彼も考えた。
普通のホテルと違うのはそれくらい、だったはずだった。
部屋は、何と言うか、素晴らしかった。内装が豪華だとか眺望がロマンチックだとかいうのではない。入室前は、もっと凄惨な、おどろおどろしい、いかにもといった気味悪さを思い描いていたのだが、怪談めいたものは全く影も形もなく、ただただ清潔で心地よく清々しかった。最期のときを快適に迎えてもらいたい、そんなホテルのもてなしの心映えをさえ思った。
(リピーターがいてもおかしくないな。すると自殺客に回す部屋が削られるわけだ。結果、サービスの質が落ちてゆき、リピーターも自殺客も減るってか。で、廃業に追い込まれると。自殺ホテル最後の利用者はオーナーでした、というオチだったりして)
エレベータでも廊下でも誰にも会わなかったが、周囲の部屋に客がいてもおかしくはない。こうして寝転んで天井を眺めながら連想に興じている間にも、各々のやり方で、各々の人生に幕を引いているのだろうか。そこに想到すると、彼の胸中に自己嫌悪の念が湧いて来た。
(我ながら悪趣味なことをしに来たものだ)
(ころしに来たものだ)
(しに来た)
夢の中で、礼二は目を醒した。目を醒した、という夢の中にいることは自覚できていた。
(いつも通り、無茶できるわけだ)
時刻は午前零時。ドアを開け、廊下へ出ると、まずは向かいの部屋のドアを蹴破った。鉄製の扉はふっ飛び、だが音もなく倒れた。
「お邪魔しますよ」
おやおや、これは二十代の女性ではないですか。あなたも興味本位の、好奇心で泊まりに来た一般客ですね。いけませんよ。いけないお客様ですね、あなたは。逝きなさい。
自分の部屋の左右隣りには同時に、今度は壁をすり抜けるような瞬間移動で到達した。夢なので、異なる空間に同時に存在できるのである。
「どうだい、SFだろう?」
何だ、どっちにもハンガーに背広が吊るされてるじゃないか。サラリーマンの出張かよ。「自殺ホテル」を何だと思っているんだ。何だその目は。おかしいのはそっちだろ。それに吊るすのも、背広じゃなくてさー。
(そろそろ抜けるか)
礼二は目を醒した。午前二時。起き上がり、洗面所でコップに水を注ぎ、飲んだ。ベッドに戻ろうとしたその時、ドアの方から風を感じた。振り返ると、蹴破られたとおぼしき鉄製の扉が音もなく倒れていた。
「他殺ホテルへようこそ」