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はるな
わたしたちは誓いました。そこで
わたしははじめて誓いを立てました
(わたしはいつもそうです、「まさにそのとき」が来るまで、それが、いったい何なのか想像することもできない、そしてそれに立ち会ったときはじめて、物事の重大さをしるのだ、それはわたしの愚かさです)
彼は誓いました、そしてわたしも誓いました。わたしたちは誓い合いました。正直に言って、わたしはまだ整理できていません。なにか重大なあやまちを犯してしまったような心持だけがします。
厳かなムードでした。すすり泣きと微笑をずっと背中に受けていました。幸福だったのは間違いありません。幸福と困惑をまったく同時に感じることができるのだということを知りました。
そのときどの男のこともかんがえていませんでした。過去のことも、未来のことも考えていませんでした。わたしはそのとき、わたし自身のことだけを考えていたようにおもいます。雨でした。雨が降っていて、いま考えればそれはわたしに良い影響を与えました。晴れ渡っていたら、自分が、どれだけ恐ろしい気持ちになったことだろうとおもいます。雨でした。しのつくような、しかしだんだんと強くなっていくような雨でした。
この生活が象徴にまみれている、と思いはじめてからは、オブラートで隔てられているような感覚がいっそう強まり、時間の感覚も難しくなって、笑ったり業務をこなすことにはたいして支障がないとはいえ、夜の溝が深まるような、ときおりあらわれる孤独感ともいうべきものは、はげしくなりました。それは、なにかの代償のようにわたしに迫ってきて、しかし、その「代償」というのも象徴めいている、わたしは、終わることのできないゲームに身を投じてしまったのだとおもいました。あきらめは、深くなるというよりも、日常にすっかり馴染んできて、わたしはいったいなにが諦めなのか、そうでないのか、選択や、自意識とは、なんなのか、境界があるようなないような、両極をいっぺんに食べてしまったような中毒を感じました。
それが、あの日、あまりに多くの象徴のなかで、それがゆきすぎて、実体へと転じるさまをみました。誓いというものはそういうものでした。
わたしは、ずっと、かたちというものが恐ろしかったのだと知りました。
境界や、時間にとらわれているのは、そういうことなのだとおもいました。
あの数々のグラス、よく磨かれたカトラリー、選び抜かれたクロス、良く香る花に埋もれるようになって、そうだったのだとおもいました。
それは良くも悪くもわたしが手に入れたかたちでした。恐ろしいことでした。走って逃げてしまいたかった。ずっと笑っていたのは、そういうわけです。
わたしは、あの日に人々のまえで(神というべきもののまえで)誓いというものを立てるまで、夫のことを、愛していることを疑っていませんでした。もちろん夫のことを愛していない日もありましたが、夫のことを愛している日には、ひとつの揺らぎもなく、それは愛でした。誰にでもそれを言うことができました。ただそれが、あの日、誓いを立て、多くのひとから、愛し合っているさまを賞賛されると、わからなくなってしまうのです。それはわたしをわずかに悲しませます。愛は誓うべきものではないとおもいました。そしてまた、わたしたちが誓ったのは、愛ではなく生活なのだなとおもいました。それは愛とは違って、おたがいのやさしさや思いやりのうえにつくられる建造物だからだ。
ひとの性格というのはたしかによく変わるものです、しかし、性質は変えがたい。わたしはそのことを知っています。だから楽しむこととあきらめることを学びました。きっとそうです、これからもわたしは予測できないままおろおろと過すのです。それがわたしにできるただひとつの予測です。