タケイ・リエ小論
葉leaf

 タケイ・リエの詩集『まひるにおよぐふたつの背骨』は、詩を書くときの自我、あるいは詩を書くときにかかわらず、人間が本源的に備えている自我の在り方について、詩という形式の持つ直接性を用いて我々に訴えかけてくる。ところで「自我」とは何だろうか。
 近代において個人の自我が確立したとき、それは、自己同一的で、連続的で、統一的なものとしてとらえられた。「自己同一的」とは、自らが大きな変化をしないということだ。自らに多少の変化があっても、その変化を自らに帰属させることができるということだ。つまり「自己」という枠の中に常に自己が収まっているということである。「連続的」とは、途切れないということだ。途中で消えたりせずに在り続けるということである。「統一的」とは、ひとつの原理によって秩序づけられているということである。
 そして、近代における自我は、個人内部において凝集するというベクトルと、社会によって要求されてくるというベクトル、その二つのベクトルによって形成された。一方で、自己というものを統一した原理で把握しようとする、人間の理性的・体系的な志向により、自我がまとめあげられる。他方で、自由や責任の主体・帰属先として、社会的な役割をしっかり果たすものとして、個人の自我の確立が社会の側から要求される。

うっかりあなたを産んで 深く
思われなかった連打にむしばまれ
黒く焦げつくとき
まっぴるまから貝になる
貝は気が向いたときだけ舌を出すでしょう
(誘う水は体液に似ているし)
       「岸」

 さて、この引用部を見てみよう。この部分には、確立した思考や意志というものが希薄である。詩の主体は「うっかり」人を産んでいるわけであり、人を産むことについての深い思慮や強い意志は感じられない。「貝」は「気が向いたときだけ」行動する。「貝」の行動は気まぐれであり、連続する決意のようなものは見当たらない。ところで、近代以降、自我をまとめ上げるものとして挙げられてきたものは、思惟や自意識や意志であった。ところが、タケイの詩には、思惟や自意識や意志の働きがあまり感じられない。思惟の働きによって自らの在り方を統一的に認識したり、自意識による反省を加えたり、意志によって自らの行動や外界を導いていったり、そういう働きがあまり感じられないのである。タケイの詩にあるのは、統一されていないものが、特に反省されるわけでもなく、ただなんとなく無秩序に感覚されていくという心象に過ぎない。そしてこの不統一な心象は、「連打」という言葉に象徴されるように、とぎれとぎれに、明滅しながら、進むとも戻るともなく発光するのである。
 そして、この引用部において、詩の主体は「貝」になってしまっている。この「貝」は「貝である私」ではない。「私」とは異なるもの、「私」の同一性からはみ出るものとして、「貝」が存在し始める。詩における比喩は、日常言語における比喩とは多少その構造を異にする。日常言語における比喩は、あるものと他のものの類似性に着目し、比喩するものと比喩されるものを類似関係の相のもとで重ね合わせるものである。だが、詩における比喩は、類似関係を希釈化し、比喩自身が本体から独立した強度を持ち始めるのである。この引用部において、「貝」はもはや「私」と類似するものでもなければ「私」に従属するものでもない。「貝」それ自身がひとつの実体として存在と強度と文脈をまとい始めるのである。
 以上から分かるように、タケイの詩に現れている詩を書く自我は、統一的でもなければ連続的でもなければ自己同一的でもない。自我を統一する、思惟や自意識や意志の働きが希薄であり、また、詩行はとぎれとぎれに心象を映し出し、さらに、自己が自己ならざるものとして溢れ出ていってしまっている。そして、このような自我の現れ方はタケイの「願望」ですらある。

私はずっと 結ばれるよりも
ほどかれたかったし
ほどかれたら生まれ変わって
だれかのための静物になりたかった
       「黒目鳥」

 「結ばれる」ということは、統一され、同一性が保持されるということである。そうではなく、タケイは「ほどかれ」たい、つまり、統一されず、自らの同一性からあふれ出ていきたいのである。
 ところで、「結ばれる」という言葉は、視覚を連想させる。視野が「焦点を結ぶ」といった具合に。実際、近代の自己同一的で連続的で統一的な自我が一番親近性をもつ感覚領域と言えば、まずは視覚であろう。視覚は、「私」固有のパースペクティブ、つまり自我によって秩序づけられた視点を設定する。そして、目に見えるものは、自我によってこれこれのものとして認識されたり、距離がはかられたり、全体の構図が整理されたり、といった具合に統一されており、しかもそれは常に「私」固有の視点、といった具合に自己同一的であり、さらに、視界は日常の意識では連綿と続いていくものと思われている。だが、タケイが重視するのは視覚ではない。

「ひらくたびになめされあるいはなだめられむさぼるた
びに抜けてくる皮膚を省略されたまま叫ぶわたしを囓っ
ても囓っても潰れない身にほぐされかんじるまま剥かれ
ることよ」
       「karman」

 タケイが重視しているのは身体感覚である。なめされたり囓られたり潰れたりする身体の感覚である。身体というものは、思惟や自意識や意志にとっては、ある程度の他者性をまとったものである。身体というものは、その可動領域が制約されており、また動かし方も制約されている。そして、身体感覚というものも、視覚とは違い、それほどの明瞭さを備えていない。ところで、タケイの詩に現れていた、自己同一的でなく、連続的でもなく、統一されてもいない自我とは、身体の相において密かに現れていると言ってもよいだろう。というのも、身体というものは常に意識のくびきから外れて自己同一性や連続性や統一性を失いやすいものであるからだ。我々は身体において、視覚ほど明瞭でまとめあげられた認識を行っているわけではない。近代的自我とは対極にあるような詩的自我を表現しているタケイにおいて、視覚よりも身体感覚が重視されるのは当然のことであった。
 ところで、身体とは他人と共有されうるものでもある。引用部で、詩の主体は、他人になめされたり囓られたりしているが、それは身体というものが、他人の身体と交渉をもち、他人の身体により侵されまた支配されうるものであることに基づいている。さて、他人と共有されうる身体といった場合、そこでは、身体の「かけがえのなさ」「固有性」「唯一性」が放棄されていることが分かるだろう。

棒は必ずくるくると回りだすのよとわたしは言ったのに
あなたはわたしを回すためにゆっくり持ち上げてゆくか
ら天井を眺めるように空を眺めた遥かむかしにみた空と
現在の空の違いをおもっているからだがすでに折り畳ま
れて持ち運ぶためのわたしがつくられてゆく
       「水脈」

 「わたし」は絶対不可侵な神聖なものなどではない。それは、「あなた」が「持ち運ぶ」のに適したように変化させられてもかまわないのである。身体における他者との交渉において、他者が「わたし」の身体を支配できる以上、もはや身体の固有性などというものはタケイの頭にはない。
 ところで、視覚優位の近代的な自己同一的で連続的で統一的な自我というものは、自我の固有性・唯一性・かけがえのなさという思想と親和的である。一人一人がそれぞれ異なって共約不可能な視点を備えていて、しかもその視点は統一され強固なものであり、その視点の源に唯一無二の自我が君臨する。しかし、身体感覚優位のタケイの自我は、決してかけがえのないものではない。それはいつでも他人によって侵されうるし、いつでも他人のための自我になり得る。自我の固有性の神話は自我がその足場を意識ではなく身体に移すことで崩壊するのである。
 ところで、このような詩的な自我の在り方は、むしろ我々の自我の本源的なあり方を反映していないだろうか。確かに、我々は、かけがえのない存在でありたいし、自我をまとめあげたいし、社会からも自我の確立が要請される。ところが、本当はそのような近代的自我の衣装をまとうことに疲労しているのではないだろうか。詩は、哲学のような理論・体系志向ではないし、社会の要請に真っ向から応えるものでもない。詩はむしろ、哲学からこぼれおちるもの、社会の表舞台からは隠蔽されるものではないのか。哲学が把握する自我や社会から要求される自我は、なるほど自己同一的で連続的で統一的な自我かもしれない。だが、そこからこぼれおち、その裏側をなす詩的自我は、非同一的で、不連続で不統一なのではないだろうか。そして、その詩的自我にこそ、内圧と外圧から解放された、人間の自然なあり方があるのではないだろうか。


散文(批評随筆小説等) タケイ・リエ小論 Copyright 葉leaf 2012-06-10 06:27:22
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