枝まめ
はるな


枝まめのからをいちいち剥いて、煮立った出汁にいれてすぐに火を止める。つやつやした色のつぶ。おとうふはいちど湯がくと灰汁がでてやわらかな口どけになる。片栗粉を水で溶いていたら夫から電話があり、遅くなると言う。夕飯はいらないよと。


なにもかも放りだしてしまいたいな、とおもいながら、何もかも放り出せたことなんて、今まであっただろうかと考える。なにもかもって何だろう?そんなに沢山いつの間に持っていたんだろう。早く、たくさん、捨てなくっちゃ。すみやかに、きれいに、すっきりと。
みんな行ってしまうね。みんな行ってしまったよ、と、彼に言うと、行ってしまったのはあなたのほうだ、と、返される。不思議な気持ちで、なぜ?と聞き返すと、だって。と。だって先に結婚もしてしまったし。なぜ?と聞いても、無駄だろう。わたしはそういう話をしているのじゃないのに。わたしはここにいるのに。結婚とか、恋愛とか、生死とか、そういう話じゃないのに。みんな、ほんとに、どこかへ行ってしまったのが、それなのにわたしはここにいるのが、それが不思議なだけなのに。

何もかも与えられていたのだろうか、と、考えるとそうでもない気がしている。本だけはいつでもどれだけでも買ってもらえた。そのほかに欲しいものはとくになかった。欲しいものは、買って与えられるようなものではないと、うすうすおもっていたのかもしれない。たとえば授業中にいちばんに手をあげられる勇気とか、きれいなエメラルドグリーンをつくれる絵の具の配分とか、ラムネのびんのビー玉をじょうずに取り出せる技とか。
たぶん自分がすごく恵まれていて、だから、満たされていなきゃ間違いなのだと、すごくおもっていた。欲しがらないことは難しくなかった。だけどだからといって満たされているわけじゃないことは、まだ自分でもわからなかった。
幼い日の欲求に、いまだに閉じ込められている。
もういらないと言うまで抱きしめて頬ずりして頭をなでていい子だねと褒めて欲しかった。一度でもいいからそういうふうにしてほしかった。腕を切って睡眠薬をたくさんのんで胃のなかを無理やり洗われる前にそうしてほしかった。一度でも。

だんだん大人になって自分で手に入れられるものが増えていって、そのことがうれしかった。自分のからだを使うことがうれしかった。抱きしめてほしかった、けど言えなかった。だから抱きしめることにした。そういうふうに解決するしかなかった。でもそれはぜんぜん解決じゃなかった。

お金とか、若さとか、楽しさとか、美しさとか、気持ちよさとか、とにかく派手に看板を掲げれば、ある程度のひとびとは、やって来た。そして、どこかへ行ってしまった。やって来て、どこかへ行ってしまう。それで当然だとおもっていた。プラスマイナスゼロなんだろうな、とおもっていた。なにもかも放り出してしまいたいなとおもっていたけれど、なんにも持っていなかったし、なんにも使っていなかった。体もなければ心もないし、始まってもいなければ終わってもいなかった。やってきて、いってしまう。なにもなかった。

それで、夕飯いらないよの電話のあと、さえざえした緑を見ていたら、きゅうにそれが寂しくなってしまったのだ。
みんな行ってしまった。わたし自身さえ、わたしを置いて行ってしまった。
強烈なさびしさが、両頬をぶちのめしていった。豆腐の灰汁がなんぼのもんか、と、おもったけれど、乳白に罪はなく、だから、会いに行こうとおもった。
これからは会いにいけばいい。そして連れていけばいいと思ったのだ。
いろいろなひとがやって来る、そして行ってしまう。でも、また会いに行く。



散文(批評随筆小説等) 枝まめ Copyright はるな 2012-05-14 18:34:43
notebook Home 戻る