大洪水
葉leaf

 起床から睡眠に至るまでにいくつもの粒子が整列していた。それらは貝や木の実や爪だったりしたが、あちこちを眺め回しては倦怠で門のようなものを開くのだった。年齢という数字が記号でもあり連続でもある、そして意味ですらあることに、そして年齢という突端が今まさに終焉しようとしていることに、義務的に気づいてはいた。例えば一枚のシーツにしわが寄る、例えば一冊の本が棚から落ちる、例えばカーテンが風で揺れる、そんな無色の展開に、すべては孕まれていた。自殺者が自殺するためにビルの階段を上がる、その過程に忍び込んでいる昨日の松の林、今日の曇り空、明日の夕陽の海、それらの対角線をよじ登る歴史の観賞者について語らなければならない。
 点の破片から平面の小道へ、分析されるものたちは、山脈の中心から幾筋も分岐した上り坂や下り坂の脇に生えた灌木の茂みの暗がりの中へと潜り込んだ。起床は闇の中で、距離感覚だけで探られた携帯電話で時間を確認すると午前三時、澄んだ虫の音が聞こえていて、室外へと送り込む闇への回答の充満に、無料で積算された光の確率を織り込んでいた。二十代最後の日が、もつれだした視界とともに始まった。蛍光灯を点けて、コーヒーを飲んで、本を開き文字を読む。本が堆積してわずかな柱や壁となり、文字の広がりがハンモックを作るとき、冷たいサッシや沈んだ机、にぎやかな畳の動き出した角度から、石のような存在の錯誤は混成される。感情は十年前に考案されたままで、特許されることもなく、偽りに偽りを重ねてただ薄青く明滅することは忘れなかった。
 きらめく振動が体内をめぐると、ドイツの空から、イギリスの帆船から、ペルーの平原から、知識の電波を介して、小さな欲望、ケーキのたぐいのもの、その鋭利な反復が消滅する。昼、収穫された桃を農協へと運ぶ作業を手伝う。軽トラックが形を失いながら、光を遮ることで、力だけを距離の間隙に注ぎ込み、虐げられた夏のしもべたちが集荷場で戦う。十四番目のトラックから二十一番目のトラックまでが、母のにおいの散乱の中で、空気の化学変化に追従していき、二十三番目のトラックが、桃の年齢をなすりつけ、樹木の枯れていく覚悟を、感覚の瀬戸際に働かせていった。道路では速度から速度へと信号機が跳びはね、落下の直前の空虚により、アスファルトは色素と立体の比べ合いで勝利していた。
 敗北する能力に欠けたまま、ふくらんだ金属の兆しの中で、電線は床を這い、壁を伝い、その電線の囲む空間へと、本体は滑っていきながら死角があふれてくるのに飲まれていった。夕方、机の前に座りながら自分が死んでいくのを感じていた。三十になるということは、若さや青春を失うことではなく生命を失うことだ。細胞は画素に分解され、意識は摩擦を失い、記憶は種明かしされていく。パンダのぬいぐるみや事務用のバッグの体臭へと虚無を投擲すると、大きな撹拌棒が返され、人生の廃墟も世界の屋根裏も価値の建物もすべてが混ぜ返され、その無数のグラフの頂上に、一つの優しい全体が書き記されていた:「どこまでも 戦場」


自由詩 大洪水 Copyright 葉leaf 2012-05-13 10:48:49
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