感覚記憶
salco

春の音がする
表通りを過ぎる車の音
自転車のベル
子どもの笑い声
前景の音が滲んで柔らかく
遠くの音がよく聞こえる
カシャーン、カシャーン
どこかで鉄骨を打つ重機
パタパタパタ…
小気味よい発動機
聞いていると眠くなる

管から落ち
ポリバケツに溜まる腹水と
薬品の混ざった甘ったるい
不思議な匂いが濃い病室で
もうすぐ攫われて行く母は
モルヒネの黄色い点滴に眠っていた
元気な頃のイビキ朗々もなく
餓鬼さながら膨れた腹部は固く
肋の下から拳のような肝臓が触れた

まるで見計らったかのように
目覚めている間に来ては
看護師が手際よい世話をする
若い母親のようににっこり笑いかけ
広げた両手を掴ませて起こす人
ルーティーンワークの先に倦んだ目で
むっつりと即物的に扱う人もいる
どちらにも劣等感で苛まれた
自分の親にそんな事もできない
この先の不在さえ信じられず
ベッドの傍らで
する事もなく半日座っていた

閉めたサッシの外では
ゴルフ練習場のネットが強風にうねり
嵐に浮き立つ海草のようだのに
カシャーン、カシャーン
パタパタパタパタ…
大気の湿度のせいか
風の唸りが滲んで
遠くの音がよく聞こえた
効き過ぎた暖房と彼方の長閑に
我慢もせず眠ってしまった

母はまだそこにいてくれて
寝息を立てている
睡眠共有の錯覚でもあったか
それが現実逃避の方便だったのか
スツールをテレビ台に寄せて凭れ
全く呑気なものだった
別れの室に入れられて
時を惜しむ、その方法がわからなかった
その無効も知らなかった


自由詩 感覚記憶 Copyright salco 2012-04-17 23:38:43
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