はたして文学極道は本当に滅亡するのか
kaz.
結論から言えば文学極道は滅亡することはない。ただし、滅亡ということのそもそもの意味は文学極道において持ち得ないという前提においてである。文学極道は滅亡というものを抱えるほどに大きな存在ではないとか、それだけの大きなものになれば、立派に滅亡することができるようになるのだとか、そんな中途半端な主張は、この後で否定される。大きいか小さいかとか、そんなことは全く関係がないのだ。
そもそも文学極道は「文学極道とは〜である」という問いに対してきちんと答えようとしてはいないし、同じように「文学とは〜である」という問いに対しても答えない。理由は簡単である。問いが解消されてしまえば、そこに存在意義が発生しなくなってしまうからだ。たとえ機械によって文学作品を大量生産できる時代が到来したとしても、決して「文学とは〜である」という問いに解答が与えられることはないのである。
だが私はこうも思う。今のところ、文壇が権威を維持できているのは、テクストを生産する機械が存在しないからではないか。将来的に機械が無数にテクストを生産し、一般に向けて発売し出して、機械が書いた物語が売買されるようになれば、それこそ文壇の権威もへったくりもないのではないか。将来ひょっとするとそのような時代が訪れるかもしれない。
この問いに対しては、文壇はどのように応答するか。考えられる応答の一つに、そもそも文壇が維持している権威と、文学作品との間の結び付きは全くの別物ではなく、むしろ機械のほうが文壇の存在によって支えられているのだ、文壇は機械を評価する機構なのだ、という主張が考えられるだろう。さて、以上のようなやり取りを、今の文学極道に対しても当てはめてみよう。
文壇が権威を維持できているのは何故か、という問いが立てられたとき、次のような応答がなされるだろう。そもそも文壇が維持している権威と、文学作品との間の結び付きは全くの別物ではなく、むしろ文学極道のほうが文壇の存在によって支えられているのだと。だから、どんなに頑張ったって文学極道が文壇の権威を乗り越えられるわけがないんですよ、ということになる。
何故、このような応答が可能なのだろうか。それは、具体例として提示した〈機械〉が、文学極道とちょうど対応していると考えられるからだ。文学極道は、もちろんコンピューターによって言語開発を行なっているわけではもちろんないし、日々文学作品を機械的に生産しているわけでもない。ただし文学極道の存在自体、一種の機械化を歓待している節があり、また作品の数はコンスタントに維持されている。むしろ自ら進んで機械になろうとしている。現に、文学極道の掲示板は現在140万アクセスを突破している。
このような見方は穿っているのかもしれない。そういう人は、文学極道を利用する人たちは、発起人を含めて、自分が一種のプログラムである、という現実を受け入れられずにいるのだ。自分がプログラムであるというのは、何も規格化されている、といった意味ではない。むしろ自動生成するループ処理のようなものと見て欲しい。文学極道という〈機械〉は、それ自身のうちに無限増幅プログラムを内在しており、利用者とはその一つ一つであるのだ。
つまり、文学極道は〈王国〉ではないのだ。自己のうちに繁栄と衰退を内在する国家機構ではありえないのだ。文学極道は〈機械〉であり、永劫回帰的な生けるプログラムを内在しているのだ。その全体がバグであり容量オーバーがあったとしても、プログラム自体が消滅してしまうわけではない。だから滅亡もあり得ない、というのが結論である。
こうした性質は、あらゆるネット媒体において等しく成り立つ。紙媒体の対立が議論されるとき、比較されるのは、ネット媒体の自己増幅的な性質ではなく、その作品の拙さであることが多い。しかしそのような発想は論点がずれている。そもそも文壇の権威はネット媒体によって維持されているのであり、しかもネット媒体は自己増幅的であるのだから、この文壇の権威も無限に増幅する。ネット媒体と紙媒体の対立が議論された瞬間から、前者の内在する性質が後者の権威を無限に生成してしまうのだ。
無限に生成するといったが、それは何も「ネット媒体と紙媒体の対立に意味がない」ということを言いたいのではない。「ネット媒体と紙媒体の対立」は紙媒体とネット媒体双方にとって非常に大きな意味をもっているのである。だが一方が自己増幅していく性質を極限まで高めれば、そもそもの対立関係は転覆してしまう可能性があるのだ。