春の追憶
小川 葉
四月に入り、電気が通じ、都市ガスはまだで、しごともまだ動かない。そんなある午後、これはわたしが家の御不浄で、排便しながら聞いた話である。
わたしたち家族が借りていた小さな借家の近くには、身寄りのないお年寄りの暮らす小さな平屋の建物が、線路沿いにどこまでも並んでいた。そのある平屋の部屋から聞こえた出来事を、ここに記す。
とてものどかな小春日和だった。便所の小窓から春の日差しが差し込み、わたしはぼんやりとこの時がいつまでも続けばいいと思っていた。仕事がないのである。なにもすることのないことの快適さ、万歳と、トイレで排便しかけたそのとき、男の人が誰かを罵倒する声が聞こえたのである。わたしは出かけた便を、すっと戻したつもりだが、つい、ぽちゃりと落としてしまった。
あなたは前にも一度、自己破産してますね。なのになんですか、また破産したいだなんて、そんなこと言って、ゆるされると思うんですか。あなたなに考えてるんですか。あれでもう、最後だといいましたよね、しかしこれはなんですか、まだあるんでしょう?ぜんぶはなしなさいよ、あんたいったい、なんなんですか、いくらあるんですか、ほらかくずに、ぜんぶだしなさいよ!
相談役なのか、取り立て役なのか、世間知らずのわたしにはよくわからないけれど、時々息を呑む、当事者の喉音が聞こえて、それ以外には罵倒しか聞こえなかった。春である。春のあのさわさわとした風の向こうに、そんな会話ともしれない、一方的な怒鳴り声が続き、そうしてわたしは排便を我慢したまま、便所を出た。
夕方、息子と近所を散歩した。平日の夕方が、こんなに呑気なものとは知らなかったけれど、わたしは心配で、さっきまで罵倒が聞こえたその平屋の窓をのぞいてみたのであるが、閉め切ったきりで、ふと東の地平線を見た。仙台新港の火災が収束していた。大丈夫、ふたたび平屋の窓を見て、独り言いって、その場を去った。
夜、わたしはばかなので、震災後においてさえ、毎晩、晩酌しなければ生きていけなくて、そうして飲んでいるうちに、夜遅く、あまり食べないものだから、腹が減ってきて、コンビニにカップラーメン買いに、ふらふら懐手しながら、夜の街に出かけた。
コンビニまで行くには、踏切を渡らなければならない。その踏切のあたりに、真夜中ひとごみが見えた。ブルーシートが運ばれていた。みな青白い顔をしていた。警官に聞くと、自殺なのだと言う。酔っ払った若者が、線路を横切ろうとすると、列車が来ますから、と言って、慌てて警官が制止した。みな緊張していた。わたしはあの人だと思った。わたしも青白くなり、カップラーメンは、買わずに帰った。
帰ってから、妻に昼からの出来事を話した。その頃わたしは、わたしの勝手な判断で、故郷の秋田に、妻と息子を連れていくことを決断していたのであるが、正直いうと妻はまだ拒んでいて、またそんな作り話をして、わたしを誘導してるのでしょうと笑う。しかしほんとのことなんだ、話せば話すほど嘘のような話であるが、これはすべてたしかな事実である。
死の足音が、聞こえるのを感じていた。ここにいてはいけないと、感じてたのである。わたしの故郷はここではない。だからこそ、本来あるべきのない怨念が、わたしをそこから逃がそうとしていた、とでも言うような、気持ちがしたのである。
ここは、わたしのいるべき場所ではない。それが災害という、切迫した状況で、明らかになることもあるのだ。わたしは仙台から、ほとんど本能的に、怨念から逃げてきたといってもいい。間違いのない決断だったと、今は思うのである。
あの春の日の罵倒はもう聞こえない。踏切でブルーシートを見ることもない。けどなぜ、人はあんな時にも保身し、人を罵倒し、死に追いこむことができるのだろう。それはやはり、人間だからに他ならず、ならばわたしはますます人を信じたくて、夜の街を徘徊してみたのであるが、幸い秋田の夜の街には、人間が誰もいないので、安心したものである。