魚の群を追いかけて
ただのみきや

エイハブの 煮えたぎる執念はない
サンチャゴの 生業における死闘もない
ただほんの一瞬
銀色の飛沫 宙に身を躍らせた
美しい魚の姿
七色の光の欠片をまき散らし
碧き海原に滑り込んだ
海の魔物のその顔を
間近に
この腕の中に見つめたくて
船出をしたのだ 果てしない海原へ

油絵のように塗り替えられる空の下
帆はたわみ 時は駈け続ける が
あの日以来 懐中時計は止まったまま
ただ 夢中で追い続けていた
白く泡立つ軌跡を見せたかと思うと
潜っては紺碧を飛ぶ緩やかな影となる
その 後ろ姿を

時折 同じように魚に魅せられた
顔無しの漁師たちと出会っては
遠くから短いことばをやりとりした
  
   「白鯨を見たか」 

そんな冗談に笑ったかどうかもわからないが

  「おれたち漁師はもう
    港へは戻れないから」

誰かがそんなことばを投げてよこしたこともあった

幾千の昼と夜を繰り返したことか
自分の体に起きている緩慢な変化が
老いであると気づいてから もう久しい
情熱だけはあの日のまま いや 
むしろ熟成された葡萄酒のように魂を酔わせていた

しかし最果ての海域で
魚の姿を見失った夕暮れ時には
ふと恐れにも似た感情が船底のネズミのように震え出す
赤黒い太陽が海に沈み始めると
海水は煮え滾り高熱の水蒸気が嵐となる
太陽はますます黒い塊となり没し行き
まるで地獄を連想せずにはいられない
そんな夕暮れに 思うのだ
 
 ずいぶん遠くに
  来てしまった と 



自由詩 魚の群を追いかけて Copyright ただのみきや 2012-03-10 23:14:35
notebook Home 戻る