屠殺場
草野春心



  降り続いた氷雨の残り香と
  幽かな血の臭いがたちこめる
  その日の屠殺小屋は静かだった
  赤い肉がまだ少し残された
  一頭ぶんの、豚の外皮だけが
  壁にだらしなくぶら下がり
  ブリキのバケツがその足もとで
  何かを待つように佇む



  ランタンの黄色い灯りを頼りに
  男はいつもの椅子を探す
  そこに深く腰を掛けて
  夜通し、分厚い本を読むことが
  彼のささやかな楽しみなのだ
  鉄が溶けて腐ったような
  生温い空気を吸い込みつつ
  古い書物をさらさら捲り
  小屋の外に繁茂する針葉樹がたてる
  鋭利な物音に、時折耳を奪われ
  自分が何か誇り高く
  劇的な人間であるような気になる
  そして同じ程度に、自分を
  何所までも低く貶めてもいた



  だがその日、
  いつもの場所に
  男の椅子は見当たらなかった
  正確に言うと、椅子はあったが
  そこにはすでに何かが座っていた
  ランタンを近づけてみると、
  座っているのは一人の女だった
  見覚えのない、蒼白い顔をした女は
  痩せたその胸に溜め込んでいた
  永遠のような長い息を吐ききると
  固くなり死んでしまった



  男はその女の遺体を
  どさりと床に引きずり落とし
  服を全て脱がせ、女の肩のあたりに
  ポケットから取り出したナイフを差し入れ
  たっぷり時間をかけて
  全身の皮膚を剥ぎ
  肉を削ぎ落とし、バケツの中に
  ぼとぼとと放り込んでいった
  それは勿論、
  彼にとって初めての経験だったが
  彼は汗一つかかずやってのけた
  肉のバケツが三つ
  臓器や性器のバケツが三つ
  それが済むと、鮮やかな赤い肉と
  まばらな体毛が残ったその抜け殻を
  豚の肉と反対の側の壁に掛ける



  それからようやく男は座った
  椅子はようやく男の椅子になった
  ひどく夥しい量の血液と
  衣服の散らばった床にランタンを置き
  その不確かな灯りの中で彼は
  本の頁を軽やかに捲る
  穏やかに、むしろ慈しむように
  屠殺小屋の外ではふたたび
  弱く、だが厳しく冷たい雨の群れが
  木々の葉を叩く柔らかな音がしなり始める
  そしてその音のうちの一つに
  真新しい赤いものが混じり
  暗闇を浸してゆくのを
  何処か遠い場所から
  女の、一対の虚ろな瞳が見つめている





自由詩 屠殺場 Copyright 草野春心 2012-03-10 15:21:19
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