祈り
瀬崎 虎彦

 クシュっとレタスを潰したような音とともに、その小動物の頭蓋は砕けた。激痛にもだえ四肢で宙を掻いているが、苦痛を悲鳴にすることは出来ない。声帯はもはや機能していないのである。放射性物質を含んだ雨が降っている。雨をよけようとその猫は車両の下に入ったのであった。車が危険だということを誰も教えてはくれなかった。世界は数ヶ月前から始まったのであり、今の今までは孤独だったのであり、今は世界に別れを告げようとしている。塵や油が浮くアスファルトの上で、もがき続けるその生命の毛皮は汚れていく。圧倒的な力で粉砕された頭蓋に比して、しなやかに運動する残りの部分のたくましさは、その小ささを別にして、躍動感に満ちているが、それもまもなく終わる。雨が降っている。

 死の場面を目撃したことが、わたしにその苦しみへの共感をもたらしたわけではない。しかし、目撃されずに完遂される死は、たとえばテロリストの首領に対する報復のように、知らずにいたとしても同じ重さで起こる出来事だったのである。それらを目にすることのない場所にいればわたしは安全であったかもしれないが、それでは事態の解決には至らない。生き物は死ぬ。必ず死ぬ。それでも、ある死に対してわたしが過剰に反応し、また別の死に対してそうではないということを、どう説明するのがいいか。わたしはベジタリアンになって、今日からの日を鎮魂に費やせばよいのか。

 死がわたしを動揺させたのではないことをはっきりとさせておく。理念においてではなく、死は当然訪れるものであることをわたしたちは実感している。肉を食らい、野菜を食らい、穀物をすり潰すわたしたちはそのことを、理解せずとも実感している。今生きていることはすべて死によってあがなわれている。だから、わたしは死を目撃して恐怖を覚えたのではないし、死んでいく生き物に対する共感で思考を停止させたわけでもない。

 とてつもない暴力というのは偏在している。意識されるよりも、意識されないことにおいてその威力は強大であり、それが垣間見えるとわたしたちは戦慄せざるを得ないので、普段はそのことに気がつかない振りをしている。だからある隠喩として、その強大な力が弱い生き物に加えられるさまを、乗用車のタイヤが子猫の頭蓋骨を粉砕した瞬間に看取したことで、あるいは予見してしまったことがわたしをおののかせた。とすると、わたしは目前の死そのものに動揺したのではない。子猫の死がなにであったのか、ということは問うことが出来ない。ただ結果としてわたしはおののいた。それだけがわたしの実感として率直に真実である。

 ただし、時をおかずして感傷が訪れる。この生命は苦しむためだけに生まれてきたのだ、という言葉によって作られた幻影がわたしを支配しようとする。これまでに、幸いを覚えたことがあっただろうか、という言葉が追い討ちをかける。しかし不幸な最期を、それまでに経験した幸いが贖うものではないことをわたしは理解している。なにかに対する代償ではなく、意味の等価交換はそこに存在しない。それは形而上の操作に過ぎないからだ。では、この目前の死はなにか、という問いは先ほどの実感にわたしの思考を還元する。

 およそ1000キロから2000キロの重量が乗用車にはある。想像してみる。仮に200キロの重さでひしがれたなら、わたしの頭蓋骨は簡単に砕ける。生まれて間もない猫の場合、砕けるという言葉では大げさに過ぎるほど容易に破壊される。しかし生命はその瞬間に去るものではない。猫の柔軟な体は、脊髄を走る神経が断絶されることを許さなかった。痛みは最大限のものであり、それに対する反応も最大限の運動で現れるが、そこには音がない。視覚と聴覚もまた踏みしだかれている。おそらく、出血により、または呼吸困難により(気道はもはや、ない)、そしてショックにより、心停止するまでの間、その間。

 雨に濡れ、汚れた肢体が弛緩して横たわる。車が次々と通り過ぎてゆく。


散文(批評随筆小説等) 祈り Copyright 瀬崎 虎彦 2012-03-09 18:05:00
notebook Home