文学的なものと哲学的なもの
kaz.

文学的なものは、そもそもの前提として、何かを語ることができないように作られている。ある一つの物事について多角的な分析を試みることはできるのだが、それを一つに要約することは文学の仕事ではないのだ。たとえば「私は死んだ」という言葉がある。それを小説や詩の一部として引用したり、クッキー占いの包みの中に入れてみたり、あるいはネットの掲示板の書き込みにして、その効果の大きさを試してみる。そしてそのようにすることで、「私は死んだ」という表現の深刻さを、コンテクストに依るのだと否定してみる。また、本当に「私は死んだ」と語ることができるのか、と疑問をも提示してみる。それが文学的な営みである。しかしそれらは、誰かが語ったという事実を分析するにすぎない。

文学的な営みによっては、あらゆる解釈は解釈でしかなく、他の解釈や疑問の提示によって揺らがされていく。そうした揺らぎの連続のうちに文学は位置している。文学は、本当のことを言おうとして、本当のことを言った後に、いくらでもそれを否定しようとする。言いたいこととは、そうして語られたものすべてであって、それらを要約してしまわないことを暗黙の了解としている。何かを語って下さい、と言われた文学者は、物語のあらすじ紹介と彼独自の読みを披露してみせるのだが、同時にその否定をも厭わない。彼の発言は一つにまとまることがない。まとまってしまうことは文学のテーゼに反するのだ。だから、「私は死んだ」と語ることは決してないし、その発言それ自体のうちに疑問を呈することはあっても、その疑問は発言が成功しているかどうかを問うものでしかない。

一方、哲学的なものは、むしろそうした発言のまとまりを、一つの足場にして受け入れようとする。小説や詩の一部、クッキー占いの包み、ネットの掲示板にあった「私は死んだ」という語りが、「本当に『私は死んだ』のか?」という疑問につながっていく。これは、「実際に『私は死んだ』と語ることができるのか」という水準の疑問とは全く異なる。具体的な形態として成功するかどうかではなく、それ以上の「本当のところ」を求めようとする。そのため、論理の一つ一つが、哲学者にとってのステップになる。そうしてステップを一段一段踏みしめて、最終段階としての真理へ到達することが哲学者の目標になる。「本当の『私』は、どこにどんな形で現れるか」、「『私は死んだ』のなら、死んでしまえば私と言えるのではないか」という疑問の一つ一つが、結論のための足場になる。

文学が具象へと散らばっていく目線、視点の複数性によって一つの語りを生み出さないことに終始するのに対して、哲学は散らばった複数の方向から一つの結論へと導こうとする。文学が発散するなら、哲学は収斂する。文学は既にある事実に対して新しく解釈を生み出していくのに対し、哲学では事実の有無とは無関係に解釈を生み出そうとする。「私は死んだ」と語る存在をいくらでも考えてしまえるのが哲学であり、それがどんなに突飛な考えであったとしてもありうるのだとする。哲学では、本当のことを言うことはできない、という前提から出発しているために、少しでも本当のことに近づくという永遠の努力のうちに成り立っている。つまり、語ったものが必ずしも解答とは言えないという自明の前提の受け入れ方が、文学的なものと哲学的なものの間では全く異なるのである。文学的なものは新しい疑問を提示することによってその前提を受け入れようとし、哲学は反論としての新しい解答を用意してしまう。誰かが語ったという事実ではなく、誰が語ったのかを知ろうとするのだ。

この二つの違いは何か? それは「解釈」という枠組みの捉え方の違いであろう。文学的な意味での疑問は解釈それ自体への反発を意味するのに対し、哲学的な意味での疑問はそれ自体に何らかの解答、つまり疑問それ自体の解釈を求めることが当然とされる。前者は成功か不成功かを取り上げ、強い否定の意味をもっているのに対し、後者における否定の意味は薄く、どころかその否定自体も自身の解釈を高めるための強力な材料になる。文学は一度創り上げたものをバラバラに壊してしまうことを厭わないという態度それ自体が文学的営為であるために、疑問の鋭さ、着眼点の斬新さを求めるが、哲学はどんな疑問も否定も予め創られているものを補強する材料にしてしまう。文学は自分の外側に解釈という名の建築物をいくつも創っていく。だからその創造物が壊されることを、むしろ新たな創造可能性として受け入れる。それに対し、哲学はあらゆるものを自分の内側に取り入れ解釈として創造していくために、創造物の破壊は自己の破壊を意味しているのだ。

ところが、ここまで見てきた文学的なもの、哲学的なものの間にある差異を包括する、さらに哲学的なものを考えることができる。「私は死んだ」という一つの表現に関わる解釈を、恐らくは死んだであろう「私」という一つの枠の中に入れてみる。すると、一つにまとまることがないものと、一つにまとまらざるをえないものとの弁証法を、考えることができるのだ。発散と収斂とを一つにレイヤーに重ね合わせることで、今度はその中心を見出すことができる。そうなると、もう発散しているのか、収斂しているのかを考えることに意味はなく、ただ描かれた円の内側にあるか、外側にあるかというだけで区別されるようになる。それは解釈と非解釈の境界である。文学も哲学もすべてが一つの解釈の円のうちに収まってしまい、さらに収まった円の中心を貫く一つの哲学とその周辺があるのだ。このとき現れる境界のもとで「私」は語る。

最初、「文学的なものは、何かを語ることができないように作られている」と言ったが、この重なりのもとでは、語ることのできる「私」と、語ることのできない「私」とが、はっきりと区別されている。本当のことを言おうとした「私」と、それを否定する別の「私」がいるために結果として語ることのできなかった「私」とが、それぞれ存在している。そしてそのような主張もまた、一つの解釈としてこの「私」の中にある。ところが、円の外側、つまり非解釈の領域には、解釈する「私」は存在しない。どんな「私の死」も用意されてはいない領域において、「私」は語ることはできないのである。しかし、語れないということが、現に語ることができてしまっている以上、解釈の水準は文学的なものに引き上げられている。語ることのできなかった「私」は、語られてしまった「私」に変質してしまう。すると、語ることのできなかった「私」は、再び語れるようになり、破壊可能な解釈の建築物と化してしまう。

文学的なもの、哲学的なもの、それからまた文学的なものへと、水準が高められるうちに、中心はずらされ、しかしまた出現する。哲学的なものは、解釈にとっての中心をいくらでも用意してはくれるが、文学的なものが再び中心を拒絶し、解釈を具体性へと分散させてしまう。文学的なものと哲学的なものを行き来しているうちに、円の中心にあったはずのものは忘れ去られていく。


散文(批評随筆小説等) 文学的なものと哲学的なもの Copyright kaz. 2012-03-08 19:53:21
notebook Home 戻る