さまよう針
そらの珊瑚

針を数えたか、と
父が言う
裁縫は針を数えることから始まって
針を数えて終わるんだと
わかったようなことを言う
自分では
ボタンひとつかがらないくせに

もしも
針がどこかに落っこちたままで
ひょんなことから
身体のどこかから入って
血管に入ったら最後
心臓に突き刺さったら
死んでしまうと
脅かす

小学生だった私は
半信半疑だったけれど
ありえない話ではないな
と思った

もしかして
既に針は私の身体のどこかに
もぐりこんでいて
血管の中をさまよっているのではないかと
夢想した
それは
おそろしい光景だったが
心臓に針が刺さる瞬間を
息を止めて
疑似体験したものだった

父は
なんどか断酒をしたが
やはり酒から足を洗えず
五年前
泥酔して
実家の階段から落ち
深夜
その頃同居していた弟に
血まみれで発見された

救急車のサイレンを鳴らさないでと
弟がお願いしたので
母は二階の寝室で
朝までぐっすり眠っていたという

あの時
父の身体から
大量に血とともに
針が出ていったのかもしれない

父は
幸運にも死ななかった
今も
母のいない間に
酒を飲んでは
正体不明になるまで
酔い潰れて
諍いのもとを作っている
その顛末を
母から聞かされる私は
その諍いこそが
老夫婦の絆ではないのかと
絆とはかくも厄介なものである、と
我慢の限界を超えて
絆を切ってみても
針があれば
縫うことになり、
いずれはもとに戻る、と
思ってしまうから
不思議なものだ


針を数えたか、と
父が言う
だから私は
多くの針を持たないようにしている
一本の針で事足りるのだ
もともと
ひとりに与えられた死は
一度だけと
相場は決まっている


 

  ✽「詩と思想」2012年11月号読者投稿欄・入選作品


自由詩 さまよう針 Copyright そらの珊瑚 2012-02-29 08:36:44
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