靴下
はるな
それじゃあ始めます という声がして無意味がはじまる。それは声を骨組みにしてだんだんと形作られていく部屋で、うす桃色の人々が肉をつけていく。私は、あ、だめだ、ストッキングが伝線しているから生活に帰りたい鍋を火からおろすために、やりかけの日々を救出しなければならないので始めない。
そのときその人は熱心に説明している、ひとつの絵(あるいは写真)を持ち上げてたぶんそれについて熱心に説明している。人々はそれを聞いているが足元からだんだんと毛深くなっていく 飛ぶ鳥が決して越えられぬある一点があるのですそれを可視化したものがこれです、しかしそれを万人が見ることができるかというとそうではありません、物事を見るにはそれ用の訓練が必要なのです。そして訓練をすれば、だれでも、そうです、誰でもそれを見ることができるでしょう。ええ。
少女だった―脚も腕も細くて―白い靴下を履かされていた。いつも赤黒くよごれた。かなしかった。
ときどき思い出すあの部屋、あの部屋にいたらわたしも桃色になってしまったのだろうと思い出す。憧憬に似た穏やかな気持ち。メロンソーダみたいな。だんだんと親指のつけ根が曲がってくる、そこから柔らかな緑が芽吹き、あれよと言う間もなく濃く隆起し、血を吸い上げ、巡らせ、また葉を茂らす そして 心地よい涼しさに目を細めると わたしは親指のつけ根から わたしを見ているのだ 不思議そうにわたしを撫でるわたしの親指のすきまで わたしは赤子のように必死に血を吸い上げ 巡らせ 緑を茂らす。
「物事を見るにはそれ用の訓練が必要なのです」
幼馴染はあらゆる仕事を転々とした結果いまは穴開け屋に落ち着いたそうだ。安定した収入を得て顔つやも良くなってきた。かれは最初医者になりたかったのだ そのころは命がもてはやされ今みたいに醜ければ裁かれるとか、長生きしすぎると殺されるとかもなかったし それにいまとちがって医者は人を効率よく死なせるためではなく生かす職業だったから。実際かれは医者にもなっていくつもの命を救ったしそれは立派なことだった。「まあとにかくいろいろあってあとは想像できるだろ、穴ふさぎ屋になったんだよ医者のつぎにはな」「ははあ」でもなあ穴がないと穴ふさぎ屋は用がないんだよこれはまったく医者とおなじだな。病人がいなければ医者は必要ないという。それでまあ当然のようにおれは穴を開けたんだよ。他愛もない穴だよ。もしかしたら誰にもその穴は見つけられないしそれならそれでいいと思った。もし見つかったなら修理もしようと思ったしその費用も微々たるもんだ。とにかくそういう小さな穴を開けたんだよ。まったくもって危険のない、ううんつまり鼻風邪みたいな穴だよ。それでやっぱりその穴の修理依頼はこなかったんだ。うん。そんなもんだよなあと思ったね。穴ふさぎ屋も畳もうと思ったよ。実際食えなかったしな、貯金も減ってきたし。で最後にあの穴をふさいでおこうと思ってね。やっぱりなんでもやりっぱなしっていうのは後味が悪いし。後片付けくらいの気持ちだよ。それで直しにいったらな、そこに女の子が座ってて、ああこのくらい…15、6かな?学生服を着ていたし。穴に入っていったんだよ。うん。そうだよ。小さな小さな穴だからね。戻ってこようと思えばしばらく経ってもかんたんに戻ってこれる…猫だってハムスターだって戻ってこれるさ。それですぐ戻ってきたよ。なんかこう…すうっとした顔して。でもまあ塞がなきゃしょうがないからさ、やっぱり事故なんかあってもこわいしな、そこはもうふさぐよと言ったんだよ。そしたらさその女の子必死の顔してそれはやめてくださいって言うんだ。塞がないでって。でもなあ、あの程度の穴なら別に、探せばいくらだってあるんだよ。俺からみたらそのくらいなんでもない穴なの。だからどうしてだって聞いたよ。そしたらさ、あの穴は特別だからって。何が特別なの?って聞いたら、わからないけど、他とは違うって。ほらあの年頃の子にはよくある仲間内の儀式とか、度胸試しみたいなもんで、穴に入って帰ってくる、ってのがあって、まあまず事故にはならないような穴を選ぶらしいし、それ用の穴?代々先輩も使ってる、とかいう。そういう穴もあるんだってさあ。うん。まあ、わかんないよな。でも俺たちのころもあったろ?写真を撮ってシールに加工して持ち歩いたりとかさ。そういう類の、まあ確認作業なんだろうな。でその女の子も、それで一度穴に入って…で、良かったらしいんだよな。うん。穴の中が。それ以来こっそり、いろんな穴に入ってみたって…きいたら、けっこうきわどい穴とかも行ってるそうだ。それである日その俺のつくった穴の噂を聞いて…そう、「噂」って言ってたんだよ。いい穴があるって。わかんないよなあ若い子のことは。そうそうそれで俺のあの穴にはいったら「これは特別だった」って。「この穴が必要なのは自分だけじゃない。」って。まあ話には聞いたことあったけどよ。穴に入って行ってしまう人間のことは。俺は理解できないよ。でもまあいろんな人間がいるからな。で、そこまではまり込みたくはないけどときどき穴には入りたい、みたいな人間にとって―その女の子とかもだな、俺の穴はちょうどいいらしいんだ。うん。大きさ?わかんないよ。だって俺穴入ったことないし。事故で落ちたこともないしな。まあ俺らの世代ならおかしくないだろ?うん。まあ穴開け屋になったきっかけって言ったらそれだよ。おかげさまで、しばらく食うには困らないしな。
あまりにも急速に遠のいたり近づいたりするので、自分がどこにいるのかがわからない。空が青かったのは事実だとおもう。結い上げた髪の毛を解かれたときに絶頂した。そのあとは惰性だった。口紅があまりにもきれいな色だったので殴りました。気分がすっとして、あしたも生きていけそうだと思った。