器官なき身体の覚書
イリヤ

もし充足な自由というものを経験していたのなら、私は詩に鮮やかさを感じたりはしない。分裂分析スキゾアナリーズはいかなる命名をも拒絶する。たとえば分析家のメラニー クラインが患者のリチャードの画く地図の作図法をオイディプス図式にあて嵌めたように、名づけとは精神分析の超コード化した文脈に対象をあてがうことで満たされる聖書神秘解釈的アナゴジックな乳房なのである。いま求められているのは、表現ではなく方法である。多様化、統一化、全体化、集団化に根づく文化的一つの線トレ・ユネールである“複写”を、イマージュに翻訳されてしまった“地図”を、ほんらいの“地図”へと再翻訳することである。メラニーの患者ハンスを例にとればわかるように、幼い欲望は閉じこめられ“恐怖症”フォビーに至り死する。“フロイトの呪縛からはなたれること”。正反対だけれど対称的でない“地図ー複写”、“複写ー地図”という身振り的、默劇的、遊戯的といった子供における記号作用が“自由”を取り戻すこと、つまり教師の言語的支配能力から逃れ自由を復権すること、私たちは自由というものの鮮やかさにあまりにも飢えている。また、ここでいう“地図”とはみずからをシンクロナイズする、トポロジーにとってかわる強度の移送であり、情報それ自体の循環するグラフである。フロイトに対して、無意識を中心化するシステムとし、“自動装置群”リゾームのネットワークとして措定しなおすことによって、分裂分析スキゾアナリーズは無意識を“生産すること”(ラテン語でconficere「生産する」であり、仏語でconfit「望ましいが不可欠でないものla cerise sur le gâteau」)に辿りつく。私たちが求めていたものは、何?それは優れた音楽に似たものであり、まさしく最終的に至る無為の生産性であり、そこに私は詩を見いだすのだ。優れた音楽への欲求が、私たちには欠乏している。



求められているのは結果(数値)ではなく経路である。ある一つの二元論を援用するのはもう一つのあらたな二元論を斥けるためである。二元論は二元論から増殖する。捉えるべき経緯はすべての二元論を経由しての“多元論”=“一元論”のアナゴジックな等式である。
リゾームの形成するのは“n+1”からなる多様体ではなく“n-1”からなる常に“一”が引かれるような高次タンパク質の構造体のような多様体である。リゾームはもっぱら“一つの線トレ•ユネールからなり、幾何学的構造とは非対称の構造を持つ。つまりリゾームは反アンチ系譜学であり刹那的な認識、つまり反記憶である。序列的コミュニケーションと予定調和であるフロイトを筆頭にした中心的自動装置もなく、リゾームとは単なる交通に定義される循環形態なのだ。リゾームの構築するのは系譜的樹木的、言語論理学的関係ではない。つまりあらゆる森羅万象の“生成変化”という通信、交通の“量”なのである。
ベイトソンは“プラトー”を何かある頂点へあるいは外在目標に指向するあらゆる方向づけを回避しつつ展開される地帯であるとし、リゾームはもろもろのプラトーから成っている。実例として引かれるのはバリ島文化であり、オルガスムスあるいは戦争にとって代わる性的遊戯である。
リゾーム学=分裂分析スキゾアナリーズ=地層=分析=プラグマティック=ミクロ政治学=ポップ分析アナリーズ
人は統一的装置の名において歴史を書く。定住民族という視点から、国家という視点から、たとえ遊牧民ノマドを語るときでさえ。欠けているのは歴史に非対称的に対立する遊牧論ノマドロジーである。エクリチュールは十字軍が錯乱するにしたがって踊りはじめ、戦争機械と逃走線に合体し、ロジカルな国家装置と定住性を放棄する。これこそまさにリゾーム的エクリチュールの一例である(アルマン•ファラシ『分解』)。



フロイトは真実に触れようとして通過し、空白の部分を連想で埋めるという点で天才である。あまりにも“固有”である名詞の“狼男”はフロイトからはなれようがルースやラカン、ルクレールにかかりつづけることになる。フロイトの言うには神経症患者は対象を同時に全体として把握し、靴下を膣に、傷痕を去勢に、というように欠損をエロティックなものとして翻訳する。例えばダリは錯乱を表現するために犀のツノについて雄弁に語るが、それは神経症的言説から全く逸脱のない論理構造をしている。だがもし、ダリが皮膚の毛孔を犀の小さなツノとして捉えはじめるのなら、私たちはそこに狂気を感じることになる。ダリの文法はフロイトによれば至って論理的な神経症的翻訳がおこなわれていると言えよう。ミクロな論理により微小な水疱はツノに“なり”、ツノは小さなファルスに“なる”。無意識にモル的な統一性を見いだすと彼のお馴染みの公式、“パパーママー僕”のオイディプス図式が出現する。フロイトはリゾームに背を向けている、その発見の手前で。
また彼の論文におけると、神経症患者は事物の比較や同一化をおこなうのに対し、精神病患者は名詞をそれらが包摂する集合を示す普通名詞として用い、“言語”の統一性、同一性を象徴する。フロイトによって損なわれてしまったのは、強度としての固有名詞と、それが瞬間的に連結する多様体との“関係”なのである。フロイトにとって言語とは、物が消滅しても言語はまだ物に同一性を与え、あるいはねつ造し、撞着する対象なのである。シニフィアンにおけるこの依存こそ、非意味的な固有名詞に代わるたちの悪い統一性の布石であり、陰険な物語りの始まりであり、そこに私たちは立ちあっているのではないか。



ドゥルーズにおける“狼男”とは、自己観察者のことである。狼は群れをなすが、狼の群れの登場する患者の夢を、言語の一般的な言葉による包摂ではなく、事物表象の一般的な自由連想という手段で、夢のなげかける謎を埋めてしまうのだ。そんなことをしても結果は失った対象の統一性、同一性(ツノはファルス、靴下は膣に翻訳されるのと同様に)に至るだけだ。こうして狼の“複数性”つまりみずからの多様体は意味に一掃されるのだ。多様体は狼たちから離れ、無関係な童話『狼と七匹の仔羊』の連想に窒息死するという、私たちはフロイトの還元というエクスタシーに恍惚となるのを目撃するのだ。つまり狼が六匹なら時計に隠れている七匹目は仔羊(つまり“狼男”自身)、五匹ならたぶん彼が両親の性行為を盗み見たのが五時だから……最後に狼がゼロ匹なら彼が去勢されたものでありかつ去勢したものであるから、だと。性交によって代理表象されることしか夢の狼が意味を持たないというのだろうか、狼男を救うチャンスは私たちにはないのか?狼たちの無言の呼びかけが意味するものをフロイトは知らずにいる。夢をみる子供は夢を見ているのではない、夢(狼の群れ)に見られているのだ。無意識における生殖、それは翻訳への恐怖をミクロ多様体にむすびつけた怪物のことである。フロイトは群れの現象に接近しようとしたが、その才能のために、見えなかった。いや、無意識それ自体が群れであることを聴きとれなかった。「ユングは、驚いて、(…中略…)一つだけだったのではない、と彼に指摘した。だがフロイトは続けた……」(ベネット)。“狼男”の夢のなかの群れとは、ほんらい生殖行為への還元を受けず、私たち“狼男”をある一定の様態に“かかわらせる”器官なき身体における何かである。それは環としての皮膚、裏返った靴下、あらゆる現象の表面に留まるマチエール。器官なき身体とは空虚な身体のことではない。あらゆる器官が群れの現象にしたがい、現象自体のうえに散乱するような一身体のことである。満たされた砂漠。器官オルガンに対立するのではなく、有機体オルガニスムを構成する組織化オルガザシオンに対立するのである。表皮の積分インテグラル、マチエールの集落。そして無意識の問題は?生殖などとは関係なく、身体のうえで世界的な集団にかかわる移民に関係しているのだ。充溢した身体にのこされた解釈は、それ自体に関係づけられた多様体がみちみちているだけである。


散文(批評随筆小説等) 器官なき身体の覚書 Copyright イリヤ 2012-02-11 23:15:39
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