うみねこが待ってる。
ブロッコリーマン

※ まぁそういうこともあっていいじゃないか。

無数の蝶々のはためきの方がかもめの鳴き声よりずっと気になるじゃないか、と誰かが言ってでも誰もその間違いを指摘しない。間違いとは根本的にそういうもので、そのようにして傷口は深くなっていくものなのだ。友人は自分の血を見るのが好きで傷口のかさぶたを剥がしてはにやっと笑い、俺はメンヘラなのだ、と、やはりそれは自嘲であった。そんなふうにメンヘラは笑わないのだということを私は知っている。本物のメンヘラがなんたるかなどを語るつもりなど毛頭ない。それは私の知らないことだからだ。兎も角も私はその友人に傷の治し方というものを教えてやった。しかしかさぶたほじりは彼の趣味であるから、べつに他人がどうこう言うべきものでは当然ない。むろん、私が彼といかに親しいか、あるいは私が彼を友人だと思っているかということは全く関係ない。

確率論とはやっかいなものだ、アインシュタインが言ったように神はサイコロを振らないだろう。何故なら面倒だからだ。私が世界を作るとして、絶対にサイコロを振るなんていう愚かなことはしないだろう。愚かだ。愚かしい。愚かなこと極まりない。だがしかしそれでしか説明できぬというのであれば、一旦認めて、その成果に浴することを厭わない。これを近代的自我というのだ。そんなくだらないことをしゃべる暇など私には残されていないということを諸兄はご存知か。私は知らなかった。知らないからこそこうしてくだらないことをしゃべることこそできるというものであろう。諸兄とて例外ではない。裁きの日はまもなくだなどと詰まらぬことは言わぬから、さっさと死に装束を纏うといい。そのことに関してアッラーは寛大にして慈悲深い。

そしてあるいは彼は何を思ったかということだ。それはむろん実際には不可知であるが、だからこそ想像のしがいもある。文学とはこのようにして不可知を想像して知った気になるためのものなのだ。失敬。


自由詩 うみねこが待ってる。 Copyright ブロッコリーマン 2012-02-10 20:42:12
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