恒常の異物
salco

 高校生の時、ハワイ旅行で娘に「パパ、イヤ」と蔑まれたなど脱線も楽しい生物の先生に聞いた中で、最も鮮烈だったのは『ヒーラ細胞』で、
1950年代に死んだアメリカ人女性のガン細胞が世界中の大学や研究機関に株分けされ、今も増殖を続けているという話だった。
 人権侵害もいいとこだが、グアテマラでの人体実験でわかるように、731部隊がアメリカ政府から目こぼしを受けたように、往時は医学が
データに飢えていた。又『死よ驕るなかれ』でジョン・ガンサーが書いた通り、悪性新生物に太刀打ちできなかった時代、イケイケ・ヤレヤレ
の医科学にはインフォームドコンセントのイの字も無かったわけだ。
 勿論、細胞自体に意識も人格もありはせず、また死滅を培養で接いでいるだけの話だが、有限である生命の「永続」を行なう科学の意図に、
底知れぬ不気味さを感じたものだった。

 そこで今思うのは、アインシュタインは自らの「脳出し」を許諾していたか、ではなくカフカだ。
 草稿、日記、書簡は全て燃やせという遺志を頭から裏切られ、彼が作家として名を成すそのアイロニー、彼自身の意思によらず、また与り知
らぬ後世に共有されている位置づけ。死んでしまえばなるほど知った事ではないにせよ、未完の作品群はプライヴァシーであったという意味に
於いてヒーラ細胞と同等だ。
 あの不思議な頭が結実させた難解なページをめくっていると、芥川龍之介が好んで使った「神経」という持ち物、凡人の感知しない事柄に気
付いてしまう、常人が持たぬ思惟領域へ疾走してしまう、その獲得形質と世俗とのギャップがしきりに思われる。
 優れた作家とはジャーナル(頒布)の意図と直接関係なく、描きたいが為に書き込む事で「神経」を疲弊する上、個の隔絶を私のごとき頭の
悪い有象無象に読まれる事で、こうして蹂躙されているのだと思われて来る。そこに名誉などありはしない。
 共有されない孤絶の労作の重量を、卑俗の功名心を煽ってやまないギネスブックの「記録」、物理現象を騒ぐその脳天気加減と比べてみるが
いい。

 こうして延々「神経」を踏みにじられる事だとしたら、プライドではなく、作家は作品を世に出した後で先ず、己が存在理由に妥協を強いな
ければならないのだろう。何故なら下衆の神経に取捨選択され、汚穢で読み回され曲解される、これが「珠玉」「渾身」作の行方であり、存在
意義なのだ。文学者の執筆動機と充足は必ずしも反映しない。
 サリンジャーが潜伏した理由はこれではないか。以後は「私家版」として書き続けていたというのは、酷評を倦んだ単なる厭世ではなく、己
が凝視の奥行きと大衆との乖離、著作物が下俗の玩弄物に堕ちるのを厭うた「忌避」ではなかったか。それは自尊心というより、美意識の癇性
だろう。潔癖という「神経」の温存法だ。

 「売文」はペイするか。無論ペイして余りある。
 漱石のパラノイアと洗面器になみなみの吐血。三島由紀夫は市ヶ谷駐屯地に走り、川端康成はガスコックを開け、カポーティが薬物に溺れた
ドツボも、ヘミングウェイが口腔に向けたライフルも、そこに帰納する。
 世に問う形で自らを圧搾する事の、消耗速度
 才気の放出に予め用意されているダウンスパイラルへの到達
 もしくは堆積の達成ではなく、転落として待ち受ける枯渇
 そんな事を恐れて書く職業作家はいない。書き続ける事に生の意味がある彼らにとって、要はそこで自分を許せるかだろう。だが強靭な知
能ではなく、場凌ぎをするのは「神経」だ。自らを駆り立てて来た者が、そもそも肥厚の繭で眠れるのか。文学はまさに徒労の煉獄だ。


散文(批評随筆小説等) 恒常の異物 Copyright salco 2012-02-06 23:20:14
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