すべてが思い出になったあとで
はるな


しゃくなげの苗が売られている。

その名まえは冬に教えてもらった。だからしゃくなげが、あんなふうな、つつじのお化けみたいな花なんだっていうのを知ったのはずっとあとになってだった。だって、これはしゃくなげと言うんだ、とても気高いかんじの花をつけるんだ。と言ったひとの顔が、きれいで、百合のようだったから、ずっと、百合のような花を咲かすのだと思っていた。

ジェリー・リーもそう。

ハイロウズを知ってまさに「青春」だった(そのときにはどのくらい自分たちが若いのかも知らなかった)あのとき、ふたりで調べてたどりついたのはなぜかJERRY LEE PHANTOMで。ジェリー・リーがピアノを弾くJerry Lee-Lewisだってことは、それからまたずっと先になってから知った。もうすっかり、music loversのメロディもなつかしくなってしまったあとで。すべてが思い出になったあとで。

しゃくなげの名まえを教えてくれた男の子も、借りてきたハイロウズのCDをいっしょに聞いてた男の子も、細かいところを、もう思い出せない。ただあの百合の横顔、それからジェリー・リー・ファントムの軽快なメロディ。

わたしがこわいのは、それらがもうすっかり穏やかな一枚のフィルムになってしまっていることだ。せつなさや、葛藤や、くやしさをぜんぶ通過した、穏やかな場所へ運ばれてしまったことだ。わたしはそれらの思い出に関するかなしみを、もう思い出すことができない。それらは終わってしまったことなのだ。「箱の中」に。

そのようなものが増えていく。

おそろしいことだ。この穏やかさに埋もれて、いつかは―そう遠くないいつかは―完全に満ち足りてしまうのじゃないか。
おそろしいことだ。望むと望まざるに関わらず―あらゆるものの可能性と不可能性の平等に甘んじて―わたしはもう満ち足りてしまうのじゃないか。戦わなくなってしまうのじゃないか。泳ぐのをやめてしまうのじゃないか。

それのなにがおそろしいかって
そのとき―泳ぐのをやめたとき―わたしはわたしが、泳ぐのをやめてしまったのだということさえ、きっと、認識しなくなっているだろうから。



散文(批評随筆小説等) すべてが思い出になったあとで Copyright はるな 2012-01-31 00:16:12
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